実証主義は必要だが十分ではない――スティーブン・ピンカー『21世紀の啓蒙』評

ピンカー『21世紀の啓蒙』評

 書評とは何か。それは「書物の小さな変異株」を作ることである。書物はウイルスと同じく、変異によって拡大する。

 批評家の福嶋亮大が、文芸書と思想書を横断し、それらの小さな変異株を配列しながら、21世紀世界の「現在地」を浮かび上がらせようとする連載「書物という名のウイルス」。第12回では、スティーブン・ピンカー『21世紀の啓蒙』(2019年/草思社)を評する。

第1回:《妻》はどこにいるのかーー村上春樹/濱口竜介『ドライブ・マイ・カー』評
第2回:《勢》の時代のアモラルな美学ーー劉慈欣『三体』三部作評
第3回:インターネットはアートをどう変えるのか?ーーボリス・グロイス『流れの中で』評
第4回:泡の中、泡の外ーーカズオ・イシグロ『クララとお日さま』評
第5回:承認の政治から古典的リベラリズムへ――フランシス・フクヤマ『アイデンティティ』『リベラリズムとその不満』評
第6回:メタバースを生んだアメリカの宗教的情熱――ニール・スティーヴンスン『スノウ・クラッシュ』評
第7回:感覚の気候変動――古井由吉『われもまた天に』評
第8回:帰属の欲望に介入するアート――ニコラ・ブリオー『ラディカント』評
第9回:共和主義者、儒教に出会う――マイケル・サンデル他『サンデル教授、中国哲学に出会う』評
第10回:胎児という暗がり、妊娠というプロジェクト――リュック・ボルタンスキー『胎児の条件』評
第11回:自己を環境に似せるミメーシス――ヨーゼフ・ロート『ウクライナ・ロシア紀行』評

ピンカーは世界が着実に良くなっていると主張する

 われわれは過去の人類がうらやむような繁栄の時代を生きている――仮にそう考えてみよう。今や人類はコンピュータやインターネットのような夢の技術を手に入れ、世界戦争も70年近く起こっていない。医療は進歩し、寿命も延び、安全で快適な生がある程度まで実現された。少数者の生き方や価値観もかつてなく尊重され始めている。だとすれば、人類は正しく進歩し、世界は良い方向に進んでいるのではないか。

 しかし、それとは逆に、人類が誤った方向に転落しつつあるという観測も根強くある。哲学者のスラヴォイ・ジジェクが近著の「Heaven in Disorder」で言うように「とんでもない不平等、気象災害、絶望的状態の難民、新冷戦への高まる緊張」はまさしく《天下大乱》――というより天そのものの秩序が狂い始めているという印象すら与える。劉慈欣の『三体』がこのカオスの時代にふさわしい寓話的SFであったことは、すでに第二回で述べたとおりである。

 では、結局のところ、世界は良くなっているのか、悪くなっているのか? それとも、われわれの認識は、このような二者択一の問いを前に立ち往生せざるを得ないほどに混乱を極めているのだろうか――ちょうど順行する時間と逆行する時間を派手にクラッシュさせたクリストファー・ノーラン監督の空想特撮映画『TENET』のように。進歩しつつ退歩し、好転しつつ暗転するというパラドックスが、21世紀の主要な教義(tenet)になったようにも思える……。

 しかし、この混迷を一刀両断するように、1952年生まれの著名な言語学者スティーブン・ピンカー(マイケル・サンデルと同世代であり、両者ともユダヤ系である)は、断固として「進歩」派の側に立った。本書(原著は2019年)の主張をいくつか抜き書きしてみよう。

・平均寿命は世界的に延び、しかも老後も健康でいられる期間が増えた。乳幼児の死亡率も妊婦の死亡率も激減した。天然痘のような人類を脅かす疫病も撲滅され、ワクチンのおかげで感染症の脅威も軽減している。

・農業分野でのイノヴェーションは、食糧事情を改善した。世界の急激な人口増加にもかかわらず、飢餓率は低下している。

・世界全体で富は増え、貧困は減少した。グローバル化は極度の貧困状態を激減させ、より良い暮らしを実現した。不平等(大きな所得格差)があるのは確かだが、全体としてパイは増えている。富は幸福と相関するので、世界的には幸福度も上がっている。アメリカのように幸福度が伸び悩んでいる国もあるが、それは統計的には外れ値である。

・世界は平和で安全になり、人類の暴力性は抑えられている。多くの内戦が終わり、戦死者も減少した。かつて啓蒙主義者が言ったように、商業的交流(貿易)が戦争を起こす動機を減らしたのである。その一方、核兵器は抑止力にもならず、暴発のリスクをもっているので、一刻も早く廃絶されることが望ましい。

 ピンカーは終始一貫して楽観的な調子で、次々と実証的なデータを繰り出し、世界が着実に良くなっていると主張する。彼によれば、短期的には浮き沈みがあったとしても、長期的には科学技術とヒューマニズム的な共感の力によって、人類は生の苦痛と暴力を減らすことに成功してきた。それは何よりも「啓蒙」のなせる業である。「信仰、ドグマ、啓示、権威、カリスマ、神秘主義、占い、幻影、第六感、聖典解釈といった妄想の源」ではなく、あくまで「理性」に照らして世界を理解しようとした啓蒙の精神なしには、このような進歩はあり得なかった(上・35頁)。この理性の歩みを止めてはならない。進歩と繁栄を裏づけるデータを並べた後、ピンカーは「わたしたち人類には常に進歩を継続しようと努力する余地が、というよりむしろ責務がある」(下・188頁)と強調するのである。

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