メタバースを生んだアメリカの宗教的情熱――ニール・スティーヴンスン『スノウ・クラッシュ』評

福嶋亮大の『スノウ・クラッシュ』評

書物という名のウイルス 第6回

 書評とは何か。それは「書物の小さな変異株」を作ることである。書物はウイルスと同じく、変異によって拡大する。

 批評家の福嶋亮大が、文芸書と思想書を横断し、それらの小さな変異株を配列しながら、21世紀世界の「現在地」を浮かび上がらせようとする連載「書物という名のウイルス」。第6回では、「メタバース」の語を生んだニール・スティーヴンスンのSF小説『スノウ・クラッシュ』(早川書房)を評する。

第1回:《妻》はどこにいるのかーー村上春樹/濱口竜介『ドライブ・マイ・カー』評
第2回:《勢》の時代のアモラルな美学ーー劉慈欣『三体』三部作評
第3回:インターネットはアートをどう変えるのか?ーーボリス・グロイス『流れの中で』評
第4回:泡の中、泡の外ーーカズオ・イシグロ『クララとお日さま』評
第5回:承認の政治から古典的リベラリズムへ――フランシス・フクヤマ『アイデンティティ』『リベラリズムとその不満』評

メタバースの宗教的礼賛

 2021年秋にフェイスブックが社名を「メタ・プラットフォームズ」に変更して以来、メタバースという言葉はザッカーバーグの思惑通り、メディアに「感染」した。素人の雑感を述べれば、メタバースはイベント、ゲーム、企業の展示、観光地の擬似体験のような用途では、その持ち味を発揮できるだろう。同好のサークルを作るのにも向くだろうし、足腰の悪い高齢者にはバリアフリーの新しい娯楽になるかもしれない。さらに、ラオスの森で昆虫採集に励む養老孟司が期待を抱くように(乱立するメタバース関連団体 養老氏率いる「メタバース推進協議会」に“不思議さ”を感じるワケ)、失われつつある景観を3Dの仮想空間で精密に再現できるのであれば、メタバースは自然遺産・文化遺産の保存の場にもなり得るだろう。VR技術がいっそう進化すれば、アミューズメント、ショッピング、アーカイヴから軍事、医療等の領域で新機軸が出てきても不思議はない。

 VRは確かにひとをわくわくさせる。ただし、一部の論者のように、メタバースが人類史を一変させる発明だとまで言い募るのは、さすがに過大評価――というか見え透いたプロパガンダだろう。そもそも、物理空間がメタバースに凌駕されるとか、今後はメタバースを基準に現実がデザインされるとかいうのは、プロパガンダとしてもお粗末である。出産・育児や介護も要らない、飢饉も戦争も災害も犯罪も停電も起こらない、病気にかからず怪我もしない、生活必需品はすべてロボットが宅配してくれる、目も頭も疲れない――それぐらいの条件があればVRに引っ越せるかもしれないが、人類社会とはそういうものではない。仮想空間に引きこもろうにも、それを妨害する物理空間のトラブルがあまりにも多すぎる。

 してみると、ケヴィン・ケリーやジョン・ハンケのように、未来の情報技術の中心をAR(拡張現実)――AIが生活空間に入り込み、モノのインターネットが定着し、現実世界が情報のスキン(皮膚)に覆われていく状態――に認めるほうが、ふつうに思える(※)。あるいはVRを推進するにしても、あくまで現実の改善に役立つようにデザインされるべきだろう。例えば、VRの立役者であるジャロン・ラニアーは、VR世界での華麗な変身(DNA分子にもなれる!)は、内的な感覚や経験を研ぎ澄まし、ハプティック(触覚的)な知性を育てるものだと述べている。ラニアーによれば、それは現実世界の「あなた」を深く探索するための道具である。「VRはあなたをあなた自身にさらけだすテクノロジーなのだ」「VRは人生の与えてくれる喜びのひとつとして楽しむべきもので、人生に置き代わるものではない」(『万物創生をはじめよう』)。逆に、VRが現実の「あなた」の感覚を鈍麻させ、人生を支配するならば、それは技術の堕落にすぎない。

 ともあれ、メタバースはまだ実体も将来性も定かでないこともあって、その宣伝はしばしば誇張した未来像を伴っている。喜びや楽しみを発明する実験場としてのVRは好ましいが、その領分を超えると新興宗教の語り口に似てしまう。現に、メタバースに自分のアバターを無数にばらまけば、アイデンティティや身体の拘束から解脱できると説く論者まで現れた。こうなるとオウム真理教のレトリックと大差ない。ヘッドギアをかぶって「尊師」の脳波と同調する代わりに、ゴーグルをつけてメタバースにテレポートすれば、嫌なことを忘れて幸せになれる? 否、そこでもまた「承認をめぐる争い」がヒートアップするだけだろう。人間の虚栄心や嫉妬、羨望は決してなくならないからだ。

 メタバースの宗教的礼賛は、「ユートピアは薄気味悪い」というニコラス・G・カーの警句を思い起こさせる。なぜ不気味なのか。「それは多分、ユートピアがその住人に、この堕落した現実世界を悩ます恐怖や怒り、嫉妬や失望、苦痛、その他いかなる厄介な感情をも決して表わさず、感じさえしないロボットのようにふるまうことを要求するからである」(ニコラス・G・カー『ウェブに夢見るバカ』/原題はUtopia is Creepy)。現実を捨ててVRに「出家」するのは馬鹿げている。ただ、それはそれとして、アメリカの技術文化がときに宗教的な色彩を帯びることは、文化人類学的な興味をかきたてるものである。そのような関心から、ニール・スティーヴンスンのSF長編『スノウ・クラッシュ』を読み解くとどうなるか。

(※)ちなみに、ニール・スティーヴンスンは、VRとARにはふつう想像される以上に大きな差異があり、競合的な関係にもならないと予想している。「VRの目的はひとを完全に作り物の場所に連れて行くことであり、ARの目的はそのひとのいる場所での経験を変化させることです」(THE SCI-FI GURU WHO PREDICTED GOOGLE EARTH EXPLAINS SILICON VALLEY’S LATEST OBSESSION)。

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