実証主義は必要だが十分ではない――スティーブン・ピンカー『21世紀の啓蒙』評
今日の啓蒙に必要な条件
もとより、ピンカーが言うように、将来を悲観するあまりに思考を麻痺させたり、そのせいで極論に流れたりするのは良くない。かといって、専門家の「ご託宣」を唯々諾々と受け入れるのは、それ自体が反啓蒙主義的なロボット化である。データをもとに妄想や俗信を批判することは、必要だが十分ではない。ヒューマニズムによって野蛮を抑制することも、必要だが十分ではない。なぜなら、過去のデータが裏切られることは珍しくなく(ここ数年の世界的事件に限っても、2019年末以降のコロナウイルスのパンデミック、2020年の香港国家安全法施行、2022年のウクライナ戦争を予見した専門家はほとんどいない)、ヒューマニズムの名のもとに、残虐行為がなされることもありふれているからである。
さらに、気候変動が人類の進歩を大きく妨げるリスクを孕んでいることも確かである。明るい楽観論者としてふるまうピンカーですら、気候変動については「間違いなく憂慮すべき事態にある」と明言している。彼は一時しのぎの方策として気候工学のアイディア(成層圏にナノ粒子をまいて地上の温度を下げるSF的な技術)も紹介するが、それが抜本的な解決にならないのは明らかだろう。過去のデータからは予想できない出来事は、今後いくらでも起こり得る。それを事後的に合理化するばかりでは、むしろ科学的とは言えない。
だとすれば、科学的な実証主義の側にも、自らの限界についての内省や吟味が求められるのではないか。この点に関わって、本書で反啓蒙主義者として断罪されている哲学者テオドール・アドルノは、1940年代半ばに書き継がれたエッセイ集『ミニマ・モラリア』で面白いことを述べていた。アドルノによれば「思想が現実に対して距離を置くことはすでに現実そのものが許さないというのが昨今の情勢であるが、その距離をさらに縮めようとするのが実証主義である」。現実から隔たった思想は、当時すでに悪評を蒙っており、実証主義がその風潮の追い風となった。しかし、アドルノはむしろ現実との「隔たり」こそが思想の生命だと見なす。
現実との隔たりは、本来安全地帯ではなく、緊張の場である。隔たりは、必ずしも概念的思考の真理に対する請求権が後退するところに現われるのではなく、むしろ思惟そのものの傷つき易さや脆さに現われるのである。実証主義に対してはいたずらに自説の正しさを主張したり、お上品に構えても仕方がない。むしろ、概念と概念を充足するものの間の一致などとうていあり得ないことを認識批判の見地から証明することこそ、それに対する正当な対し方である。
実証主義者は思想を現実の要約にしようとする――しかし、そうなると、かえって現実を洞察する力が失われてしまう。アドルノによれば「生に対する隔たりがあるからこそ思想の生の成り立つ余地もあるのであり、また逆にそれだけが現実の生に的中するということにもなるのだ」。この含蓄のある言葉は、すぐに「現実」に飛びついてしまう21世紀のわれわれにとっても重要な戒めとなる。あらゆる宗教的信仰を断ち切ろうとする実証主義には「現実信仰」が根を張っており、それはピンカーも例外ではない。ピンカーにとって、データに裏打ちされた現実と一体化することが、思想の役割にほかならない。だが、その場合、言説と現実との不一致があれば、すぐに失望や非難を招くことにもなるだろう。
例えば、つい十年ほど前までは、地球温暖化の犯人は温室効果ガスではないという主張を「実証的」に語る論客がいた。しかし、その主張はピンカーも言うように不正確である。そのピンカーは難民問題について、第二次大戦時に比べればマシという強引な理屈を立てているが、世界の難民数は2010年代を通じて着々と増加しており、国内避難民とあわせると今や8000万人超とされる(UNHCR/数字で見る難民情勢(2020年))。ピンカーはこのような不都合なデータを無視している。こういう具合に、どれだけデータをもとに楽観論を語っても、状況が変わればあっさり修正されてしまうのだ。ピンカーは「短期的には色々変動はあっても、長期的には進歩のつじつまが合って、世界は良くなっていく」という考えだが、それはご都合主義にすぎない。
繰り返せば、科学技術がわれわれに大きな恩恵を与えてきたことは、ピンカーとともに積極的に認めてよいし、客観的なデータによって思い込みを修正することも常に必要である。ただ、本書にせよ、あるいは昨今話題になった『ファクトフルネス』にせよ、ファクトやデータを積み重ねれば現実と一体化できるという信念そのものに、思想への無理解がある。その信念はときに、不愉快な鏡像をも生み出すだろう。現に、実証主義者が馬鹿にする陰謀論者にしたところで、彼らなりにファクトとデータ(とされるもの)を集めて、誰も知らない「現実」を暴露しようとするのであり、その限りで実証主義者の悪しき分身なのである。
要するに、問題は、思想を現実になりかわらせようとする態度そのものにあり、それが実証主義者と陰謀論者の終わらないイタチごっこを生み出している。あるいは、右の保守派と左のリベラル派のあいだの不毛な応酬も、たいていは目の前の特定の「現実」を鬱憤のはけ口とする、部族内での閉ざされたゲームにしかならない。だからこそ「現実との隔たりは、本来安全地帯ではなく、緊張の場である」というアドルノの言葉は、改めて思い出されてよい。現実信仰に全面降伏することなく、隔たりの緊張を保つこと――、それが今日の啓蒙に必要な条件なのである。