実証主義は必要だが十分ではない――スティーブン・ピンカー『21世紀の啓蒙』評

ピンカー『21世紀の啓蒙』評

実証主義は必要だとしても、それだけでは啓蒙には十分ではない

 こうして、ピンカーはこれでもかと言わんばかりに明るいデータを示し、人類の進歩を「実証」しようとする一方、その根源にある啓蒙主義が脅威にさらされているとも見なす。その原因は主に部族主義とポピュリズムにある。

 部族主義は左右問わず存在する。なぜなら、人間はある意見が客観的に正しいかどうかよりも、所属するグループ内でその意見がどのように評価されるかを気にかけるからである。うっかりそのグループに否定的な印象を与えれば、周囲から糾弾され、キャリアを棒にふりかねない。そうすると、グループ内の発言が画一化し、党派性が強くなるのは必然である。それは知識人のサークルでも変わらない。ピンカーは大学で左傾化が進み、政治的な多様性が失われつつあるとして警鐘を鳴らしている。

 この部族主義的な偏向は、政治に深刻な影響を及ぼしている。ピンカーによれば、もともとアメリカの共和党と民主党はイデオロギー的に対立していたとしても、歩み寄る姿勢を示していた。しかし、今や両者はお互いを見下しあうばかりで、二極化が鮮明になっている。その分断を背景にして大統領となったドナルド・トランプは、事実に反するでたらめな主張を続けて、仲間の部族から喝采を浴びた。このポピュリズムの台頭に対して、ピンカーは左・右・中道という党派性に汚染されることのない、合理性に根ざした議論の必要を訴えるのである。

 ここでピンカーは、本連載で扱ってきた同世代のアメリカの思想家と似たことを言っている。部族主義とポピュリズムを超え、偏向に歯止めをかけるために、フクヤマ、サンデル、ピンカーはいずれもそのゲームの上位にある公共的な土台を再設定しようとした。ただ、フクヤマのように古代ギリシアの節度の美徳を呼び出したり、サンデルのように共通善に訴えたりするのは、空手形の印象を拭えない。彼らに比べれば、科学的な実証主義を掲げて「未成年状態を脱する」(カント)ことを目指すピンカーの啓蒙路線のほうが、多少なりともスマートに映るのは確かだろう。

 さらに、ピンカーがニーチェを筆頭に、それ以降のドイツのフランクフルト学派やフランス現代思想の面々をこき下ろしているのも、気持ちはある程度理解できる。現に、20世紀の人文系の学者が、しばしば実りのない科学批判を繰り返して自己満足してきたことは否めない。私の経験した範囲でも、特に哲学研究者のなかには、科学技術を頭から見下してはばからない学者がいる――むろん、彼らも自分が病気になれば医学の世話になるだろうが。ピンカーの本は、このような狭量な部族主義に冷や水を浴びせる効果はあるだろう。哲学者はむしろ文系と理系を橋渡しするエージェントであるべきである。

 ただ、ピンカーの議論にも哲学者を批判しようとするあまり、不要な力みがある。そもそも、科学的な実証主義やヒューマニズム的な共感だけで、啓蒙は成就するだろうか。つまり、ひとびとの無知蒙昧を解消し、カントの言う「未成年状態」から脱するのに、啓蒙vs野蛮というさっぱりした二分法でうまくいくだろうか。それに、ピンカーのようにデータに基づく実証主義を揺るぎない「後見人」に据えるのは、それ自体が新しい「未成年状態」を――専門家に盲従して思考停止に陥った人間たちを――生み出さないだろうか。

 私の考えでは、実証主義は必要だとしても、それだけでは啓蒙には十分ではない。そもそも、精神と社会の働きはピンカーが想像する以上に多様であり、その働きがしばしば、人間を拘束するさまざまな罠をも作り出してしまう。ピンカーには、思考の望ましいあり方を健康な実証主義へと一元化するきらいがある。だが、それだけでわれわれを縛りつける条件を操作することはできない。

 例えば、一般には反啓蒙主義的なポストモダン哲学者と見なされ、それゆえ本書でも名指しで批判されているジャック・デリダは、むしろ自らの脱構築の試みを啓蒙の伝統と結びつけている(ハーバーマスとの共著『テロルの時代と哲学の使命』参照)。もしデリダの脱構築が思考をその構造的な「罠」から逃れさせる操作的な手法なのだとしたら、それは確かに啓蒙のプロジェクトを改変しつつ引き継ぐもの、いわば《啓蒙の拡張》である。むろん、ピンカーに言わせれば、デリダの哲学はせいぜい邪道の啓蒙にすぎないだろう。しかし、科学とヒューマニズムという王道だけでは、人間は未成年状態から脱出できそうにないからこそ、脱構築という手の込んだ戦略が出てきたのだ。われわれはむしろそこに「21世紀の啓蒙」の課題を認めるべきではないか。

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