「詔書部分で誤字を出し、危うく不敬罪」 伝説の校正者が語る、“1文字の怖さ”とは?

先日、新聞に掲載された評論書の広告に誤字があり、ちょっと話題になった。サブタイトルで「ボーイズラブ」とあるべきところが、「ボーズラブ」になっていたのだ。たった1字の脱落だが、そこを“坊主”にしてしまったら、だいぶ意味が違ってしまう。その種の誤りを防ぐための仕事が、校正である。長谷川鑛平『本と校正』(中公文庫)は、この仕事について書かれた名著の増補新版だ。
かつて伝説の校閲部部長がいた

長谷川は、岩波書店でこの道に入り、中央公論社(現・中央公論新社)では谷崎潤一郎の代表作『細雪』の校正に携わり、校閲部部長を務めた人物である。30年以上におよぶ経験と培われた技術が、『本と校正』には書かれている。ただ、中公新書でもとの本が刊行されたのは一九六五年のことだから、今とは事情が違う部分もある。
本書では校正について、もとの原稿と、それに従って文章が印刷された校正刷り(ゲラ)を照らしあわせ、誤字、誤植を正すことだとしている。長谷川が生きたのは活版印刷の時代であり、手書き原稿をもとに印刷工場で工員が金属の活字を1文字ずつ選んで文章を組んでいった。今では手書き原稿はごくわずかだし、原稿としてまとまった文字データを入稿するからだいぶ違う。
とはいえ、機械同士の相性で文字化けすることもあるし、データそのままにゲラが出てくるとは限らない。また、『本と校正』では、工員が活字をはめこむ時に字を横向きや上下逆にしてしまう例をあげているが、中公文庫の増補新版ではその箇所の注釈で、「現代で多用されるOCR(光学文字認識)では似た字形のものを誤って認識しやすく、校正でも見落としやすい」と記している。現代には現代の問題があるわけだ。
校正には元原稿との違いのチェックだけでなく、内容自体の間違いや不十分な点を指摘すること(校閲と呼ばれる)も含まれる。その重要性は、昔も今も一緒だろう。したがって、オフセット印刷やデータ印刷が一般化した現代と活版印刷の過去という違いはあっても、長谷川の経験談や技術論は、今に通じるところが多いので関心を持って読める。
戦前から校正をしていた人だから、歴史的に興味深い話も出てくる。長谷川は戦時中、天皇が臣民に公布する形だった詔書を載せた部分で誤字を出した。不敬罪になるかという恐ろしいミスだが、警視庁に呼び出され叱責だけですんだそうだ。敗戦後には占領軍のGHQの検閲があり、指摘された部分は削るしかなかった。だが、その部分を削るだけでなく、前後の部分も表現をまるめてつないだ。このため、時間が経つと本のどの部分が検閲で歪められたかわからなくなってしまうと、長谷川は記している。校正という仕事が、時代に左右される一方、歴史を伝える行為であることがわかる。
本の誤字に関して世界的に有名なものといえば、『聖書』の戒めの言葉「姦淫するなかれ」の否定形が脱落して「姦淫せよ」となったエピソードが、真っ先に浮かぶ。長谷川はそれに言及しつつ、自身の失敗談として、薬の処方について小数点以下の「0」を1つ落としたままにしたことをあげている。1桁上がった単位で服用すれば体に害があるかもしれないため、大急ぎで正誤表を作り本にはさみこんだという。
校正者は疑問を書き入れることに慎重であるべきだ
本書には、間違いやすい字の具体例をたくさん載せている。「西田幾太郎」、「菊地寛」、「三島由起夫」など誤字を含みながら見過ごしやすい文字列を紹介し、「万-方」、「充-先」、「加-如」など形が似ていて誤りやすい字のペア、「学界-学会」、「確信-確心」、「享年-亨年」など熟語の紛らわしい例などを列挙している。掲載例を覚えられたら、間違いはかなり減りそうだ。
これらは文字のレベルの問題だが、原稿の内容への疑問を洗い出すのも校正者の役割である。列車の乗り継ぎを使った推理小説があったが、ストーリーをたどるとどうもアリバイトリックが成立しない。そのため『時刻表』各種を調べると、小説の雑誌連載中に一部が改正されており、作者が改正に気づかぬまま『時刻表』を使ったため齟齬が出たとわかったという。これなど、校正者のお手柄だろう。
長谷川は「校正者は、その著者のためにはおそらく最初の精読する読者であろう、少なくともその一人である」と語る。校正者は、精読の結果について赤字を入れ、著者に伝えることができる。だが、一般的なわかりやすさを念頭に文章をチェックする校正者と、専門家としてこだわって書く著者では、意識が時々すれ違う。『本と校正』では、内容に関する疑問の赤字を入れた若い校正者が、著者から答えてもらえなかったうえに、「自分が無知でも、他の人はよく知っている、ということを忘れるな」と相手に書かれ、ショックを受けた件が紹介されている。
長谷川は、校正者は疑問を書き入れることに慎重であるべきだとしている。著者が天才であるのに対し、校正者は「常識の地平をこつこつ歩く歩行者だからである」という。これが、彼の基本姿勢だ。
本書では、森鴎外が、『鸚鵡石』で著述家の校正に対する怒りを題材にしたことを書いている(鴎外の弟が出した本をめぐるトラブルが話の元らしい)。現在でもSNSで作家などが、校正の無理解を嘆く発言をすることはしばしばあるので、両者のせめぎあいに終わりはないのかもしれない。著者と校正者は、本をよくしようとともに考えているが、立場は異なる。このため、作者自身が気づかないことを校正者が気づくことがある。それが校正の存在意義であり、意義は現在も変わらない。
長谷川は自分の校正が正しいかどうか迷った時、「職業的校正者のこわいのは、著者よりも、一部読者よりも、上司と同僚の思惑である。社内でとやかく言われなければ、まず、ほっと大安堵するわけである」と語る。それは冗談だろうが、本音も一部含まれているように感じられておかしい。校正という厳格さが求められる仕事について述べながら、このような人間臭い話が時おり出てくるので、堅苦しくなりすぎない。本というものがどのようにできあがっていくのか、校正者の目から語られていて面白い。
巻末には、ゲラを使った校正の練習問題と解答が掲載されている。あなたもとり組んでみてはいかがだろうか。
■書誌情報
『本と校正 増補新版』
著者:長谷川鑛平
価格:1,100円
発売日:2025年9月19日
出版社:中央公論新社
レーベル:中公文庫

























