初音ミクはなぜネット発の音楽を牽引する存在となったのか? アルビン・トフラー『第三の波』の影響を紐解く

クリエイターの自由意思に委ねる

ヤマハが開発した音声合成技術「VOCALOID(ボーカロイド)」(※1)。その技術を元にクリプトン・フューチャー・メディアが開発したバーチャルシンガー・ソフトウェアは、世界初となる日本語対応の歌声合成ソフトウェア「MEIKO」を皮切りに次々と登場した。
中でも、2007年8月に発売された「初音ミク」は、ネット発の音楽を牽引する存在となり、J-POPを代表するクリエイターたちが世に出るきっかけにもなった。人型にデザインされた個性的なバーチャルシンガーたちは、DTM(デスクトップ・ミュージック)(※2)環境に不足しがちな歌声を補完する「楽器」としての役割だけでなく、「キャラクター」としての魅力も持ち合わせていた。
ボカロは、そのリリースとほぼ同時期にサービスが本格化したニコニコ動画などの動画配信プラットフォームと結びつき、イラストレーター、動画クリエイターたちの創作意欲を大いに刺激して、インターネット発の音楽シーンの広がりを決定づけた。
その歴史やクリエイターの輪の広がり、そしてこれからの創作にまつわる期待などを、原初のボーカロイドであるMEIKOやKAITO、そしてボカロの代名詞となった初音ミク、巡音リン・レン、巡音ルカなどの開発・販売元であるクリプトン・フューチャー・メディアの代表・伊藤博之の視点で語ったのが『創作のミライ 「初音ミク」が北海道から生まれたわけ』(中央公論新社)だ。
本書を通して詳細に語られるのは、伊藤がボカロ文化の最大の特徴であるクリエイターの創作の連鎖、つまり「n次創作」の広がりをどのように整え、そこにどんなミライを夢見てきたかということ。話は大きく分けて「クリプトン・フューチャー・メディア設立以前」「設立後の事業とボーカロイド黎明期」「ボーカロイド文化が浸透した現在とミライへの可能性」の3つに分かれており、伊藤の実体験やそのときどきに考えていたことを回想する形で進んでいく。中でもたびたび登場する重要なキーワードが、自身が学生時代に衝撃を受けたというアメリカの未来学者、アルビン・トフラーの1980年の著書『第三の波』だ。
『第三の波』とは、「農業革命」「産業革命」に続く第三の波として「情報革命」に焦点を当て、消費するだけでなく自らも生産する消費者「プロシューマ―」の台頭や、それに伴うUGC(ユーザー生成コンテンツ)時代の予見、分散型社会の提言などを行なった書籍。UGCとはまさしく市井のクリエイターたちの創作の連鎖によって広がったボカロ文化の成り立ちそのものであり、初音ミクを筆頭にしたバーチャルシンガー・ソフトウェアが多くの人々に愛されることになった理由のひとつでもある。本書を読めば、その発想が偶然ではなく、会社設立以前からあった伊藤の関心に紐づくものだったことが分かる。
また、初音ミク誕生秘話やボーカロイドの黎明期にまつわる項では、当時の伊藤がこの文化にどんな魅力を感じ、どんなことに興奮し、その芽を摘まないようにどうサポートしてきたかが詳細に語られている。中でも印象的だったのは、最低限のルールや仕組みを整えつつも、基本的にはクリエイターの自由意思に委ねるという、“クリエイティブの余白”を残したサポート体制だ。ボカロ文化の黎明期はまだまだ音楽業界におけるUGC(ユーザー・ジェネレーテッド・コンテンツ、ユーザー生成コンテンツ)の前例は少なく、特に権利的な問題においては課題が山積していた。初音ミクの販売開始後に届いたクリエイターからの権利関係の相談/問い合わせをもとに二次創作のルールを制定し、人々が繋がれるハブとして「ピアプロ」を立ち上げる際にも、最も重視されていたのは「クリエイターに寄り添うこと」。過度な公式側からの干渉を避け、個々の創造性に委ねることを重視したその舵取りが、同文化のその後の広がりに与えた影響は大きい。
テクノロジーは人の代わりではなく、音楽を共作するパートナー
また、その後のボカロ文化の浸透や海外への需要の広がりについても詳しく言及されている。ボカロ文化を長く愛してもらうために必要なマインドや視点が、伊藤の実体験の中から立ち上がってくるのが印象深い。ムーブメントが生まれた後も含めた長期的な視野で同文化を見守り続ける伊藤の語り口は、ビジネス論的というよりも徹底してカルチャー論的である。短期的な利益よりも長期的な成長を選択する伊藤の姿勢は、まるで近隣の公園の植物を毎日手入れして生育を促すかのようだ。実際、伊藤は「収益モデル」ではなく「収穫モデル」を提唱しており、本書で「創作の可能性を信じる」ことの大切さを全編を通して語っている。
本書の終盤では、音楽文化のこれからにまつわるトピックとして、AIがもたらす影響についても触れられている。ここでも伊藤の言葉は「AIやテクノロジーは人間の創作や可能性を拡張するためのもの」というスタンスで一貫している。実際、初音ミクをはじめとした同社のボーカロイド製品の歌声は、実際の担当声優陣の声を極限までリアルに再現するような方向の進化は遂げておらず、意図的にボカロ特有の合成音声っぽさを個性として残すことで、「ボーカロイドの歌声」として存在している。
人の代わりを目指すのではなく、人と共に音楽を共作するパートナーとしてテクノロジーに向き合う。そのうえで、創作に向かう際のハードルを下げて間口を広げたり、新たなヒントをくれたりする可能性に期待する。やはり伊藤が大切にしているのは、ボカロ文化でも可視化された、様々な場所で暮らす、様々な価値観を持ったクリエイターたちの輪の広がりなのだ。
10代の頃に衝撃を受けたトフラー『第三の波』に感銘を受け、大学職員の仕事でいち早く触れたインターネットの可能性に興奮し、起業して初音ミクをはじめとするボーカロイドの一大ムーブメントを巻き起こし、その波を人々が長く愛する「文化」として定着させる――。黎明期から現在にいたるボーカロイド文化の興隆と定着は、どのようにして、どんな思いのもとに実現したものなのか。そして、登場時は一時のブームで終わるとも言われていたボカロ文化は、なぜ15年以上に亘って人々を魅了し続けるコンテンツとなったのか。そしてこれからのエンターテインメントはどんなふうに変化していくのか。本書にはその答えのひとつが、ボカロ文化を生み出し、ずっと見守り続けてきたキーパーソンの視点で語られている。
(※1)VOCALOID(ボーカロイド/通称:ボカロ)
本来の定義は、ヤマハ株式会社が2003年に開発した、歌詞とメロディ(楽譜情報)を入力するだけで楽曲のボーカルパートを制作できる歌声合成技術および、その応用ソフトウェアの名称・呼称。いまでは歌声合成ソフトウェア(VOCALOID以外の技術を用いた同種のソフトウェアを含む)を使用した楽曲全般が「ボカロ曲」と呼称されており、音楽シーンにおいては「ボーカロイド」がひとつのジャンル名として用いられることがある。(「VOCALOID(ボーカロイド)」および「ボカロ」はヤマハ株式会社の登録商標です)
(『創作のミライ 「初音ミク」が北海道から生まれたわけ』まえがきより)
(※2)DTM(デスクトップ・ミュージック)
パソコンを使った楽曲制作のこと。キーボードなどの機器と、パソコン上のソフトウェアを組み合わせて、作曲から編曲、録音まで、全ての工程をデスクトップ上で行うことができる。
■書誌情報
『創作のミライ 「初音ミク」が北海道から生まれたわけ』
著者:伊藤博之
価格:1,980円
発売日:2025年7月23日
出版社:中央公論新社

























