カンザキイオリにとって創作は“呪いであり救い” クリエイティブの源泉となった『呪怨』

カンザキイオリの創作の源泉『呪怨』

カンザキイオリ「正しい命の浸かり方」第3回——『呪怨』

 1月。

 これでもアーティストの端くれをやっていて、2025年の末には大きなライブを迎えました。無事に大成功を収め、そのおかげで、ようやくゆっくりとした休みを今月取れることになったので、友達と温泉に行こうという話になりました。

 冬場の露天風呂は、とても寒いです。足はちぎれるほどに凍えてしまいそうでした。

 歩くたびに何かが刺さってくるような感覚があるかと思えば、だんだんと感覚が消えていきます。足の先から始まり、気づけば腹と肩が冷え、内側に「何もない」が侵入してくるんです。「何もない」というものが体の内側から成長し始めて、だんだんと私が私でなくなる前に、急いで露天風呂に、半ば飛び込む勢いで入りました。私が私でなくなる。無くなる。亡くなる。死ぬということは、「何もない」を身にまとっているのと同じなんだと思います。

 「自分はどうやって死ぬのかをよく考えるんです」と、友達に告げたときのキョトンとした顔、今でも思い出します。多くの人は、自分の死ぬときのことを考えませんか? 私は昔からそうでした。自分は一体何で死ぬのだろう。映画の中に起こるたくさんの死因は、きっといつか自分も体験する。そんなことを根源的に考えていました。皆さんは考えませんか? 自分が一体何で死ぬのか。

 まさか自分が死なないなんて考えていませんよね。自分の命が永遠で、自分がずっとこの先もずっと生きていられるなんて思っていませんよね。あなたは死ぬんです。私も死ぬんです。みんな死ぬ。この言葉を聞いたとき、あなたは怖いと思いましたか? 私は思うんです。死ぬのが怖いというのは、もしかして、大変失礼であることを仮定して、ホラー映画の観すぎなんじゃないかなって。

 ホラー映画が好きです。ホラー映画には、死のさらに奥があるんです。死んだ後のさらに奥。死んだ後の話を扱うお話はよくあります。宗教なんかでもよくあるんです。イエス・キリストは一度死に生まれ変わりました。仏陀は輪廻転生を繰り返しています。死から教訓を得る話はたくさんあります。それはつまり、前向きな話、明るい話、教訓を得る話様々なんです。ホラー映画は、その死という概念に刺激を与えたもの。恐怖を求める「死」のファンたちの大いなる創造作物です。と、私は考えます。幼い私にとって、映画はフィクションなんかではなくて、はっきりとしたリアリティーがありました。昔、映画に出てくるキャラクターは全て本物だと思っていたんです。つまり、映画の中に出てきたキャラクターが死んだら、その役者も死ぬ。本当に死ぬ。役者はワンカットで殺されて、その殺された瞬間を撮られている。怪我をした役者は本当に怪我をしている。人を殺した役者は本当に人を殺している。今考えると、本当に滑稽ですが、でも、それくらい映画というのは、私の心にリアリティーを押し付けてきました。

 死んだら、私たちには何も残りません。それでも何かを残したいと思う、私たちの根源的なその理由は何なんでしょう。なぜ私たちは何かを残したくなってしまうのでしょうか?

 だって、自分が死んだ後の未来に自分はいないのに。何かを残したい大切な人がいるかもしれませんが、その人も死ぬ。みんな死ぬ。オーバーキル。なのに、生きて何かを残したいと思う。私たちは一体何がしたいのでしょう? 私はなぜこんなにも死について深く考えているのでしょう。そう思ったときに、やはり私がホラー映画が好きだということ、ホラーなコンテンツが好きだということが深く結びついているのだと思います。死ぬという行為に創作をぶつけたもの。それがホラー映画です。私は、ホラー映画が好きです。ある作品を観てからずっと。

 前置きは、ここでようやく終わり。今日はあなたにホラー映画を紹介します。

 『呪怨』という映画を知っていますか? かなり昔からある、とても有名な映画です。伽椰子(藤貴子)と俊雄(尾関優哉)というキャラクターを知っていますか? もしかしたら名前だけでも聞いたことがあるかもしれません。

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