杉江松恋の新鋭作家ハンティング 好きにならずにいられない小説ーー三木三奈『アイスネルワイゼン』評
そうか、「アキちゃん」か。思い出した瞬間に小説中のある箇所が鮮明に蘇ってきた。主人公の〈わたし〉が小学生時代の同級生について語るという形式の小説である。それもいい思い出ではない。「わたしはアキちゃんが嫌いだった。大嫌いだった」という文章で小説は始まる。〈わたし〉にはミッカーというあだ名があり、他の誰もがそう呼ぶのにアキちゃんは「アンタ」なのである。いつも〈わたし〉のそばにアキちゃんはべったりいるので周囲からは親友と見なされているが、内心ではひどく憎んでいる。そのアキちゃんとの間に生まれた一つの因縁が話の軸となる。転校生のタナちゃんからもらった可愛い財布をめぐる挿話で、なぜか〈わたし〉はそれをアキちゃんに進呈する羽目になるのである。
個人空間の侵略ともいえる行為を受け続けている〈わたし〉は、必然的にアキちゃんの熱心な観察者にもなっている。小説のもっとも輝かしい瞬間は、〈わたし〉が雑貨屋でアキちゃんの姿を認め、物陰に隠れてその動向を観察するという場面で訪れる。
アキちゃんの「手」に関する文章だ。ここだけ抜き出しても真価は絶対にわからないのだが、一応引用する。
——アキちゃんはゆっくりと棚の前をすべるように歩いていた。そのすぐ後ろではアキちゃんの手が尾ひれのようにアキちゃんのあとをついていった。陳列された商品をひらひらとなでていくアキちゃんの手、そこに置かれたものを無感動になでていくその手を、わたしはよく知っていた。それはアキちゃんが花や、わたしのものを扱うとき、手持ちぶさたにじぶんの髪や服にふれるときなどにあらわれる手だった。それはただ何かにふれていたいというだけの手だった。(後略)
〈わたし〉のアキちゃんに関する言及は辛辣なのだが、ここだけはカメラアイに徹したかのように判断を控えている。スローモーションの技法が使われ、手の動きだけが忠実に描かれる。ぜひ小説全体を味わっていただきたいのだが、最後まで読むとこの手に関する文章がアキちゃんを表現するための重要な部品であったことが判明するのである。身体の一部分を描いてここまでそのキャラクターの内実を示すことのできる文章は稀だ。
絶対に選考委員もこのくだりに触れていたはず、と思って「芥川賞のすべての・ようなもの」の引用を見返したが、抜き出されていなかった。記憶違いか、もしかすると言及があったのは文學界新人賞の選評だったかもしれない。ちなみに「の・ようなもの」に引用されている選評は「アキちゃん」の核になっている部分を割っているのでご注意いただきたい。各選考委員は「下手な手品を見せられたよう」(松浦寿輝)「(小説が主題にしていることを)もっと正面から描くべきではないか」(奥泉光)と結構辛辣で、そうかな、と個人的には首を傾げたくなる。その原因は「アイスネルワイゼン」と同様、わざわざ迂回路を使って目的地に到達するような書き方を作者がしているからで、遠回りをしているからこそ読者の心に響くという小説だってあるのではないか、と私は思うのである。その意味では吉田修一の「叙述トリックという手法が、読者の先入観や偏見や思い込みを逆手に取るものだとすれば、これほどテーマと手法が合っているものはない。このようなテーマと手法とを意識的に組み合わせる作品をあと数作書けば、かなりユニークな作家になるのではないでしょうか」という選評に全面的に賛成する。そうか、「アイスネルワイゼン」は吉田から出された課題に取り組んだ作品だったのだ、と改めて気が付いた。
ぜひ「アキちゃん」「アイスネルワイゼン」の順で読んでみてもらいたいのである。この作家の並々ならぬ力量が感じ取れるはずだ。小説は、何を書くか、だけではなくて、どう書くか、も評価軸となる文章芸術のはずだ。私は三木三奈が用いる語り芸のファンなのである。この書き手が生来備えているユーモアは、ほのかな可笑しさを常に読者に与えつつ物語の結末まで誘う。そこでに小説が本来書こうとしていた人間の真実、どうにもならない現実のありようや、不用意に口にすることが憚れる本音が姿を現すため、読者は驚きと共にページを閉じることになるのだ。この技法、どうかゆっくりと育てていってもらいたい。