女子高生が寿司に? 須藤アンナ『超 すしってる』誕生秘話「思いついちゃったからとしか言いようがない」


ポストの投函口から突き出したA4サイズの白い封筒。開けば、「おめでとうございます!」と合格通知の文字が踊る。とはいえ、差出人が“西東京すし養成大学”とあれば、誰もが訝しげにゴミ箱へと突っ込むところだろう。しかし、もしあなたが「何者にもなれないかもしれない」という不安に苛まれているときだったら? 一体私は何に選ばれたのかと、気になってつい足を向けてしまうのではないだろうか。
そんな奇妙な出だしから始まる小説『超 すしってる』は、デビュー作『グッナイ・ナタリー・クローバー』で小説すばる新人賞を受賞した須藤アンナが、受賞後第一作として放った作品。一見すると突拍子もなく思われる世界観で紡がれるのは、誰もが一度は通るであろう将来への不安や居場所のなさといったモラトリアムの心情だ。
東大に落ちた女子高生・サッチャーと、迷い込む“すし”化のプロセス。なぜ、“すし”なのか。そもそも、“すし”とはなんぞや――。そんな作品誕生の舞台裏から、愛すべきキャラクターたちに込めた思い、そしてこれから描いていきたい物語まで、たっぷりと語ってもらった。
1週間で一気に書き上げた、悩み多かった学生時代の“総決算”たる物語
――インパクトのある作品ですが、発表後どのような反響が届いていますか。
須藤アンナ(以下、須藤):知人たちからは「なんでこんな話を書いたのか」という感想ばかりが届きました。でも、書けてしまったものは仕方がないというか(笑)。馬鹿馬鹿しさを楽しんでいただけたら何よりです。
――「書けてしまった」ということですが、本作はどのようにして生まれたのでしょう?
須藤:もともとは大学4年生のときに、卒業論文の代わりに書いたものでした。文学部ではなかったので、小説を書いて卒業という形にはならなかったのですが、何かしら学生生活の総決算になるような話が書けたらなと思って。
ちょうどそのころ、就職活動が難航していたんです。留学の名目で国外逃亡を画策していて、出発前に何か1本書いていこうと奮起したのがきっかけです。
私自身、人生のなかで一番いろいろと悩んでいたことが多かったのも高校時代だったので、主人公たちを高校生にして。当時の日記を振り返りながら、感情を言語化していったんです。高校時代の私は、視野が狭くて失敗ばかりで。小説を書いたり、賞に応募してみたりと、「どうにかいい方に向かいたい」ともがいていました。そんな、“あのころ”の思いを書けたらなと。
――もはや、突き動かされて「書かされた」という感覚でしょうか?
須藤:そうですね。最初にタイトルと1行目、そしてラストシーンがあって。そこが決まってしまえば、あとはブレずに書き進めていくことができました。昼間はカラオケボックスにこもって、Creepy Nutsさんの「かつて天才だった俺たちへ」のライブ映像を「いい歌だな~」とリピートしながら。夜は、それこそ作品中にも登場するアニメ『輪るピングドラム』を流しながら書いていました。海外へと向かおうとしていた飛行機の出発時間はずらせないので、「絶対にこの日までには書き上げてやるぞ」という勢いのままに、1週間で初稿を書き上げました。
――1週間で! そこから、どういった流れで書籍化されたのですか?
須藤:一旦寝かしておいて、何かの賞に応募したんです。でも、3次選考ぐらいで落選してしまって。そのときいただいたフィードバックに「なぜ“すし”なのか、最後までわからなかった」というコメントがあったんです。「うん、そうだろうな」とは思いつつ(笑)、なんとなく悔しくなったので、出版社の方にもお見せしようと思ったんです。
――担当編集の方からは、須藤さんが持参された企画書がきっちりと真面目な形式で書かれていて、そのなかで『超 すしってる』のプロットだけが異彩を放っていたとお聞きしました。
須藤:(笑)。『超 すしってる』一本で勝負する自信がなくて、いろいろとセットで持ち込んだんです。なので、『超 すしってる』を「面白い」と言っていただけて救われる思いでした。そこから主人公の感情の動線をもう少しわかりやすくするなど、細かな修正を加えて書籍化にこぎつけることができました。本当はもっと固有名詞がバンバン出るくだらない無駄話の描写があったんですけど、それもコンパクトにして。
――そうだったんですか。そんな無駄話のシーンも読みたかったですね。
須藤:『フルハウス』みたいなシットコムの会話のテンポ感がすごく好きなので、そういう会話シーンを書くのが楽しくなっちゃうんですよね。
たとえ実を結ばなくとも、何かになろうという努力は絶対に否定したくなかった
――これを聞いてしまうのは野暮かもしれませんが、あえて質問させてください。なぜ、“すし”だったのでしょうか?
須藤:それはもう思いついちゃったからとしか言いようがないというか……(笑)。最初は少女たちがシャリにされて、自分だけのネタを探す旅に出る……みたいなログラインも考えていた記憶があるんですが、いざ組み立ててみたら、こういう話になっていました。
“すし”はお寿司そのものでありつつ、ある種のメタファーでもあって。一応、私の中では必然として答えはあるんですが、あまり明文化はしたくないなというのが正直なところ。究極的に言うと、この作品はドラッグ小説に置き換えて『超 ラリってる』でも一応成立はすると思うんです(笑)。改稿作業中に読んでいたのも、フィリップ・K・ディックの『パーマー・エルドリッチの三つの聖痕』でしたし。
――作中では『輪るピングドラム』に登場するセリフ「きっと何者にもなれないお前たちに告げる」が印象的に響いていましたね。
須藤:それこそ、『輪るピングドラム』については最初、私の姉が観ていたんです。私は横で「なんで、そのシーンを何度も何度も繰り返し見ているんだろう」って不思議に思っていて。後に、それがBANKシーンなのを知りました。「きっと何者にもなれない」は、キラーフレーズとして私のなかに残っていったんですよね。私自身、何かに失敗をするたびに考えさせられる言葉でした。なので、モラトリアムをテーマにした小説を書く上で、絶対にこのセリフは入れないと、と思ったんです。幾原監督、本当にありがとうございます。
――そこから、『西東京すし養成大学』という得体のしれない大学からの合格通知が届くという展開は、一体どこからアイデアが降りてきたのでしょうか?
須藤:発想の根源は、当時読んでいた安部公房の「カンガルー・ノート」ですね。主人公の脛からカイワレ大根が生えてくる、というあらすじにもう感動してしまって。必然を凌駕するイマジネーションに、気づけば落涙していました。そこから、世界をいま見えているものだけで語ってしまうのでは本当に書きたいものに到達できず、テーマに対して不誠実であることに気づき、不条理文学に傾倒していった記憶があります。
不条理を描いた作品でいうとカフカの『変身』も勿論大好きで、あの話も物語上、“虫になった”とありますが、本当に変身しているかどうかはわからないし、なぜ“虫”なのかも作中で明文化はされないまま終わる。けれどテーマや比喩がそこかしこに敷き詰められていて、短編として非常に美しく成立しているんですよね。そういう世界観を目指したなんて言ったら、とてもおこがましい話ではあるのですが。
――あやしげな場所だと思いながらも、サッチャーは西東京すし養成大学に足を運び、やがて“すし”化していきます。その第一歩として描かれたのがオリエンテーションの“シャリ化”でした。他者との境界線がなくなる“シャリ”化は、少し怖くもありました。
須藤:シャリの一部になるという“同一化”の現象は、これまでも多くの作品で表現されてきたもので。いま一番有名なのは『新世紀エヴァンゲリオン』で描かれた「人類補完計画」かと思います。遡ると、アーサー・C・クラークの『幼年期の終り』やグレッグ・ベアの『ブラッド・ミュージック』などで描かれてきたもの。
幼い頃から、小説でもアニメでもSF作品に触れる機会が多く、そのような流れから生まれた展開でした。唯一無二の自分でありたい。でもその一方で、除け者にはされたくないみたいな、矛盾に対するひとつの着地点のように思います。
どんな共同体にも、“とにかく誰かを除け者にしよう”というシステム上の思想みたいなものが生まれてしまうものなので、“同一化”の願望は必然であるとも思いつつ。でも個人的には、たとえ実を結ばなくても、何者かになろうという努力自体は、絶対に否定したくはなかったんです。
選べない家族も選んだ友だちも、登場人物はみんな主人公のつまずく小石に
――エキセントリックな展開あり、ユニークなキャラクターありと、読んでいて本当に胸が弾んだのですが、書かれているときにこの部分が楽しかったというものはありますか?
須藤:これまで世に出ていないものも含めて、いろいろと長編小説を書いているなかで、一番ストレスなしに書くことができた作品だったので、どこも楽しかったですね。強いて言うなら「オリエンテーション:シャリ」「実技試験:ネタ」「中間試験:ガリ」「プレゼン課題:サビ」「最終試験:握り」の5章で構成しているなかで、「プレゼン課題:サビ」のラストが、サッチャーの成長曲線がそこでピークに達するという意味でも、展開として一番しっかりしているなと感じています。
――次々と親友たちの「そう来たか」というプレゼンが披露され、真面目なサッチャーの焦りが伝わってくるようでした。サッチャーの親友たちの名前は、声優を目指すCV、パーカーをいつも着ているパーちゃん、姫カットの小町と、特長をそのまま投影したニックネームが印象的でした。
須藤:デビュー作含め他の作品ではもっと名前にモチーフを組み込むのですが、今作は冒頭から4人で話すシーンがあったので、記号的なものがないとわかりにくくなってしまうだろうなと考えてのことでした。加えて、私が自分の名前にそんなにこだわりがないタイプなので、かなりストレートなネーミングになりましたね。
――西東京すし養成大学の学長・板ノ上真魚の名前にも吹いたのですが、マグロを頭に乗っけて登場するところでも、また笑わせてもらいました。
須藤:楽しんでいただけてよかったです。板ノ上学長のビジュアル、実は阿部サダヲさんのイメージで書いていました(笑)。
――ぜひ映像化していただきたいところです! 中学の卒業式で泣かなかったことから「鉄の女=サッチャー」となった主人公ですが、家族にも、学校生活にも満たされないものを抱えながら、コロナ禍という非常事態に突入し、ますます世界に対する憤りの密度が高まっていったように思います。須藤さんのなかで、ご家族やコロナ禍について思うことは何かあったのでしょうか?
須藤:そうですね。家族って、どうしても選べない関係性の人たち。それでもつながり続けていくものなので、つい「なんでわかってもらえないんだろう」って、強く当たってしまいがちなんですよね。その甘えと葛藤が、親の庇護下にいる学生時代は特に大きいなと、私自身が感じていたところもあります。
コロナ禍については、私は大学生のころだったので、ひたすらオンライン授業でした。登校する必要がなかったという意味ではラクではありましたが、プレゼンで一緒に発表する人たち以外とは、なかなか喋る機会がありませんでしたね。コミュニケーションツールとしてSNSが必須で、私はあまりやらなかったことから、クラスメイトに「サークル、何入った?」と聞かれて、はじめて「あ、サークルあるんだ」って知ったくらいでした(笑)。
徐々に対面授業も解禁されていったんですが、もうすっかりオンラインスタイルに慣れていたために、「オンラインで受けられるのに、なんで大学に行く必要があるのか」と感じていたところがありましたね。今では、もっと行っておけばよかったな、と思います。
――誰もが戸惑った時期でしたよね。そんな須藤先生を支えた、サッチャーたちのような親友グループはいらっしゃいますか?
須藤:はい。なかには小学校からの付き合いの子もいるくらい、長年の友だちグループがいます。さっきの選べない家族に対して、友だちは自分で選んだ関係性。だからこそ、崩れないように気を使う部分があって、家族よりも繊細な関係になっていると感じています。それゆえに「青春=友情」みたいな記号ができるのかなとも思っていて。
友人たちは私よりも可愛かったり、面白かったり、性格がよかったり……みたいな素敵な人たちばかりで。そんな友だちに向けたリスペクトと同時にある卑屈な思いが、サッチャーたちの描写に反映されてしまっているかもしれないですね。恥ずかしいです。
――個人的に、サッチャーが一方的にコンプレックスを抱いている生徒会長の絢ちゃんとの別れのシーンが好きです。さまざまな思いを抱きながらも、「LINE交換しとく?」「まさか!」と交わされる会話が最高でした。
須藤:ありがとうございます。そもそもサクセスストーリーにはしたくない、という思いがあり、サッチャーが生徒会長と友だちになってしまうのも違うなと。生徒会長はサッチャーよりよっぽど一生懸命生きている。自分は彼女ほど頑張っていなかった、まだまだ足りなかったんだっていう劣等感を受け入れることが、モラトリアムからの脱却に繋がるのではと考えました。
とはいえ、彼女のことを認めても、やっぱり劣等感はサッチャーのなかに残り続けます。生徒会長は、サッチャーが自分の立ち位置を理解し受容できるようになるための、ある意味リトマス紙的な存在なのかなと思います。
――なるほど。そうしたキャラクターたちはどのように作られていったのでしょうか?
須藤:主人公以外のキャラクターは、みんな主人公に対する何らかの試練になる存在だと思っているんです。友だちも、大好きでとなりに並びつつも、心のどこかでちょっとだけ見下している部分があって。でも、あるタイミングでは、自分のほうがろくでもないなって気づかされる。生徒会長の絢ちゃんは常に上を走っていて、ずっと変わらないと思っていた兄のジロウくんが、いつの間にか変な位置にいてザワザワする、みたいな。何かしら主人公がつまずく小石だったり、ぶつかる壁になるようにしました。
どうしようもない世界の中で、どうやって楽しく生きていくかを問う物語を
――物語の終盤に出てくる「物語の展開は変わらない、変わるのはそれを見る私の方」というフレーズが心に残りました。おそらく、この物語も読まれる人のタイミングによって、いろんな見え方ができるのではないかと思うのですが、須藤先生にもそうした体験はありますか?
須藤:小さいころに好きで見ていた作品が、大人になってみると違う印象を受けることってありますよね。似たような体験で印象に残っているのが、万城目学さんの『鴨川ホルモー』です。小学生のときに人から勧められてハマったのですが、当時の私はコメディではなく真面目な話だと思って読んでいたんですよね。でも、文庫版の解説で金原瑞人さんが「なんとも馬鹿馬鹿しい」みたいなことを書かれていらっしゃって。
当時は、その「馬鹿馬鹿しい」という言葉を否定的に受け取っていて、「主人公たちは一生懸命なのに、なんてひどいことを言うんだろう……」と真剣に思っていました。でも、中学生になって読み返したら、最高に「馬鹿馬鹿しい」話で。高校受験で落ちたときも、帰りの電車の中で『ホルモー』を読んで泣きながら笑っていました。今でも定期的に読み返しています。馬鹿馬鹿しいものって素晴らしいですよね。
――先ほど、世に出ていないだけでいくつもの長編小説を執筆されているというお話がありましたが、今後はどのような作品を書いていかれるのでしょうか?
須藤:私の執筆の根幹には、個人とシステムの思想的対立がずっとあるんです。『超 すしってる』では、大学受験という制度があり、そこからはじかれて迷走する主人公を描いています。前作の『グッナイ・ナタリー・クローバー』でも、排他的な町というシステムに飼い慣らされていた少女が、最終的には町からの脱却を試みる話でしたので、きっとこの指針はずっと続いていくんじゃないかなと思っています。
どうしても、世の中には個人の力では抗い難い不条理な構造が、平然と存在しています。そんな中で、歪んでいるなりに尊厳のある歯車たちが全力疾走していく、そんな話を書いていければと思っています。そのアプローチとして、スポーツものだったり、お仕事ものだったり、青春小説だったりと、文体も変えながら。このどうしようもない世界で、どうやって楽しく生きていくかを問いかける物語をお届けしていきたいですね。
■書誌情報
『超 すしってる』
著者:須藤アンナ
価格:1,870円
発売日:2025年12月8日
出版社:中央公論新社



























