キャリー・マリガンが表現する“強さ”と“ナイーブさ” フィルモグラフィから紐解くその魅力
映画『プロミシング・ヤング・ウーマン』(2020年)の成功が、主人公役のキャシーを演じた俳優キャリー・マリガンの魅力に負う部分は大きい。キャシーは激しい怒りを原動力に大暴れする女性だが、同時に、傷つきやすさや迷いを抱えた人物であるからこそ、観客を惹きつける。強さとナイーブさの共存する女性像は、キャリー・マリガンにうってつけの適役であり、キャシーの抱く複雑な感情がみごとに表現されている。彼女の新たな代表作となった『プロミシング・ヤング・ウーマン』の燃えたぎるパワーに圧倒された私だが、今回はキャリ-・マリガンのフィルモグラフィから、これまでに演じてきた印象的な役柄を取り上げ、彼女の魅力を読み解いてみたい。
『プロミシング・ヤング・ウーマン』の主人公キャシーは、ある行動に取りつかれていた。夜ごとバーやクラブへ出かけては、酔ったふりをするのだ。すると必ず男性が声をかけてきて、前後不覚になった彼女を介抱するふりをしながら自宅へ連れていき、身動きの取れない相手と合意のない性行為を始めようする。どのバーにも、どのクラブにも、そうした男性が常にいるのが現実なのだ。行為が開始されそうになった瞬間、彼女は起き上がって制止し、場合によっては流血沙汰も辞さない姿勢で男性と戦う。こうして、女性と合意のない性行為をおこなう男性たちの監視活動にいそしむキャシーは、犯罪行為に及ぶ男性へ私刑をくわえ、彼らの名前をすべてノートに記録していくのであった。作品冒頭では、こうした主人公のひとり自警団活動が描かれる。意外性のあるモチーフが、観客の映画的興味を誘っている。
こうして説明すると、キャシーは獰猛な突進型の性格に思えるが、大学時代の同級生ライアン(ボー・バーナム)との関係性では、彼女なりに妥協し、相手の不完全さを受け入れる態度を示している。こうしたモチーフに、キャリー・マリガンならではの繊細さが感じられた。たとえば劇中ライアンが、まだ両者の信頼が深まっていない段階で、唐突に身体の関係を求めてくる場面。「部屋に来ないか」というライアンの誘いを断ったキャシーは、怒りにふるえて路上のごみ箱を思い切り蹴飛ばすのだが、この場面には彼女の抱える苦悩がよく示されているのではないか。
「ようやく、お互いの人格を認め合う人間らしい関係性ができたと思っていたのに、結局は身体が目的なのか」というキャシーの落胆は、作品の主題とも関わる重要なものである。つまるところ、自分の価値とは身体のみであり、男性の欲望を満たす肉塊にすぎないのか。こうした主人公の落胆、「この人は自分を違った側面から見てくれているのではないか」という期待が裏切られた瞬間の痛みは、男女問わずに共感できるものではないだろうか。彼女にとって性は非常に重い問題であり、個人的には、この一件でキャシーはライアンを許さないと予想していた。
しかし、キャシーがライアンを許して関係性を続けたことで、彼女の印象が大きく変わった観客は多いはずだ。相手を許すかどうか、彼女なりに悩んだはずだが、本来であれば受け入れがたい男性の身勝手な性欲を許し、ライアンの良き部分に目を向けて関係を続けようとしたのである。キャシーは完全に自暴自棄になっていたのではなく、他者とのまっとうな関係性を望んでいたし、男性を信頼したい気持ちが残っていたのだ。ライアンをふたたび受け入れるのは、彼女にとって難しい判断だったように思うが、そこでキャシーが見せる妥協が、人物としての奥行きや揺らぎを表現する効果的なモチーフとなっていた。
また、いつものように酔ったふりをして男性に連れていかれる隠密行動中の姿をライアンに目撃されてしまった際の、ばつの悪さも印象に残る。映画的にも、観客を気まずくさせる悪夢のようなシーンだ。いったいライアンはキャシーを許せるか、これも微妙なところだが、キャシーはあやまり、ライアンはそれを受け入れた。次第に、お互いの過ちを認め合う関係性が生まれつつあったのだ。だからこそ、ラストにおける失望がさらに大きくなり、彼女の痛みや、最終的な選択に至る気持ちがよく伝わってくるのだ。最後の信頼が失われた以上、すべてを破壊して敵もろとも自爆する以外に何ができるだろう。
交差点で嫌がらせしてきた男性の車を、タイヤレバーで破壊するシーンも記憶に残る。そのときキャシーは、うめき声ともつかない悲痛な叫びを発するのだが、彼女はこのような行為にほとほと疲れ果てているようにも見える。本当であればこのようなことはしたくない、しかし多くの男性が、あるいは社会全体が、女性に対してあまりにも蔑視的な態度を取るため、彼女は戦わざるを得ないのである。もうこのような衝突はしたくないが、命を絶った同級生ニーナの弔い合戦を止めるわけにもいかない。キャシーが、これまでに成敗してきた男性たちの名前が書かれたノートを捨てる場面も、恨みを捨てて生きていきたいという彼女なりの願いであったように思う。そうした願いが叶わないところに、本作の厳しい現実認識があるのだが……。