花田十輝の“作家性”を『メダリスト』と『ユーフォ』から考える “勝利”よりも大切なこと

2024年最も多くのTVアニメ脚本(※1)を担当したとされる花田十輝が今期手がけている『メダリスト』からは、その作家性が透けて見えている。もちろん原作者・つるまいかだ本来の作家性もあり、また原作からの変更の全てが脚本に帰するわけではない(監督との兼ね合いもあるだろう)。しかし、とりわけ花田十輝の担当する作品から大きく影響を受けてきた筆者は、このTVアニメ版『メダリスト』から彼の持つ「作家性」のようなものを読み取りたい衝動に駆られる。

それは花田脚本についてよく言われるような自己実現的なフォーマットに則って何かを勝ち得たときの「輝き」、またはその美しさを称揚することではなく、むしろその背景に佇む敗者たちに焦点を当てることによって初めて姿を現すものだ。『メダリスト』から滲みでる花田十輝「らしさ」とは、まさにそのことを象徴している。彼の脚本は一見「競争」を強調しているように見えても、実際には競争における「勝利」を渇望しているのではなく、その中に全く別の価値を見出しているのではないか。
例えばそれがもっともわかりやすく原作との違いとして現れているのが、大会におけるフィギュアスケートのシーンだろう。原作では選手たちがスケートの演技をするとき、どれくらいの難易度で、どれくらいの点数がつくのかということが明記される。対して、アニメ版を観てみると加点がされる/されないという評価が話されることはありつつ、その程度がどれほどのものか、それがどのように勝利へと結びつくのかの詳細が視聴者に示されることはほとんどない。

また、演技全体の演出を通しても同じように言うことができるだろう。アニメ版『メダリスト』において、選手たちの演技は連続的な一つのプログラムとして描かれる。その数分間に、コーチや観客の描写はありつつも、選手たちがどのような点で優劣をつけられているかといういわば「審査員」からの視線は原作と比較してかなり制限されている。これによってスケートのことを多くは知らない視聴者が選手たちの優劣を評価することは難しくなる。視聴者は選手たちの勝敗や優劣より、個々人の成長の物語へと目を向けることになるだろう。
こうした翻案によって行われているのは、どのような戦略で勝ち進むかかを仔細に描くことをある程度手放しながら、主人公・いのりが「フィギュアスケート」そのものに抱く憧れや楽しさに主軸を純化させてゆくことだ。そこでは恐らく、目標として掲げられるような「オリンピックのメダリストになる」ということを至上命題として邁進していくことよりも、その過程で何を得られるかであったり、いのり自身がどのようにして自分のことを求められるようになるかということに重心があるように見える。

ところで、同じように何かの大会(と、そこにおける勝利)へと向かってゆく作品として、ちょうど現在放送されている武田綾乃原作の『花は咲く、修羅の如く(以下、花修羅)』があったことを思い出してみたい。『メダリスト』と『花修羅』を並置すると、花田十輝と武田綾乃が交差する地点として、『響け!ユーフォニアム3』のことを筆者は考えたくなる。2024年に放送された本作は『響け!ユーフォニアム(以下、ユーフォ)』の完結編となっているが、放送当時に原作との結末の違いが話題になったことも記憶に新しい。よく知られている通り、本作は「スポ根」ものというふうにも位置付けられ、目標へと部活内の全員で努力してゆくストーリーには苦手意識を持つ視聴者も多い。しかし本作の結末の違いは、同じ「スポ根」ものの作者として括られることも多い花田十輝と武田綾乃の違い、ひいては花田十輝の「作家性」を浮かび上がらせる鍵にもなりうるだろう。『ユーフォ』の結末において明確になった二人の競争に対する姿勢の差は、花田十輝の作家性をより顕わにしているように感じられるのだ。
『響け!ユーフォニアム3』はなぜ傑作になったのか “原作改変問題”を考える重要な一作に
『響け!ユーフォニアム3』は原作との向き合い方に重要な一石を投じた。 ご存じの方もいると思うが、主人公・黄前久美子のオーディ…
原作とアニメ版の最大の違いは、主人公・久美子がオーディションの末に全国大会でのソリストから外されてしまう点にある。どちらの場合でも最終的に北宇治高校は全国大会金賞を獲得することになるが、ここで考えたいのは、特にアニメ版において、久美子がそうした価値観とは別な水準に価値を見出してはいなかったかということだ。