金子雅和監督による新たな“川映画”の傑作 『光る川』が誘う唯一無二の映画体験

『光る川』が誘う唯一無二の映画体験

 ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみにうかぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。世の中にある人と栖と又かくのごとし。――これは鴨長明が人生観について綴った『方丈記』の冒頭部分である。おそらく多くの人にとって、それなりに馴染みのある文章なのではないだろうか。流れる「水」をモチーフにした言葉は、おそるべき早さで流れゆく日々を過ごす私たちにとって、非常に普遍的でリアルなものだと感じられることだろう。

 川/河の水の流れは絶えることがない。絶えず変化し続けている。その流れにカメラを向けたとき、フレーム内の水の流れはずっと同じようでいて、1秒前とは完全に姿を変えている。間違いなく同じ川/河の「水」でありながら、フレーム内に収められたものはまったく違う「水」なのであり、つねに変化し続けている。だから私たちは水の流れを飽きることなく見つめ、気がつけば引き寄せられたりするものなのだ。『光る川』でその流れにカメラを向けた金子雅和監督も、そんなひとりである。人間の生活や人類の歴史を描きながら、その背景であり舞台である自然に肉薄する。金子監督の作品たちはいつもそうだ。特定の人物の物語を描きながら、その背後に流れている、あるいは屹立している、より大きな物語を描く。それが金子映画である。

 これまでにも自然界の“動く物”にカメラを向けてきた金子監督は、この『光る川』ではタイトルにあるとおり、「川」にカメラを向けている。とある大きな川の上流の山間の集落から、この物語ははじまる。

 物語の舞台は1958年。少年・ユウチャ(有山実俊)は、林業に従事する父・ハルオ(足立智充)と病床に伏している母・アユミ(山田キヌヲ)、そして祖母・バッチャ(根岸季衣)の4人で暮らしている。ある夏の日、ユウチャは集落にやってきた紙芝居屋の元へと向かう。そこで目にし、耳にしたのは、この地に古くから伝わる物語だ。山の民である木地屋の青年・朔(葵揚)と恋に落ちた里の娘・お葉(華村あすか)は、叶わぬ想いを嘆き、山奥の淵に身を投げたのだという。その彼女の涙が溢れ返るように、数十年に一度、大洪水が起こる。これがこの地の言い伝えだ。やがてこの地に嵐が迫るとき、ユウチャは祖母の言葉に従い、山奥の淵へと向かうことになる。カミサマのいる青い淵に――。

 川/河を重要なモチーフとし、タイトルに冠した作品は、これまでにも数多くある。ジャン・ルノワール監督の『河』(1951年)や、サタジット・レイ監督の『大河のうた』(1956年)、小栗康平監督の『泥の河』(1981年)、ツァイ・ミンリャン監督の『河』(1997年)、ソンタルジャ監督の『草原の河』(2015年)、そして、シーロ・ゲーラ監督の『彷徨える河』(2015年)などがそうだ。ここに挙げたのは、私が個人的に愛している“川/河映画”の一部。といっても、どれもが「名作」や「傑作」に位置付けられるものなのだから、私だけの偏愛映画というわけでは決してないだろう。スペインで開催された第62回ヒホン国際映画祭でユース審査員最優秀長編映画賞を、そして、ポルトガルで開催された第45回ポルト国際映画祭のオリエントエクスプレス部門において最優秀作品賞を受賞した『光る川』もこれらに連なる作品だ。

 本作の柱になっているのは、少年・ユウチャの物語と、紙芝居で語られる悲しき恋の物語。純真無垢なユウチャの瞳に映る1958年の世界と、この地の原風景とでもいうべき世界を、私たちは目の当たりにしていくことになる。

 時代や地域を問わず、川/河の水は人々の生活とともにあり、癒しを与えることもあれば、畏怖の対象となることもある。それらはどこから流れてきて、どこへと流れゆくのか。自然の摂理や仕組みを頭では理解していても、本当のところは分からない。1秒前にカメラで切り取った水は、果たして本当に海へと流れていくのだろうか。じつのところは分からない。絶えることなく流れ続ける川/河の水は、そのすぐそばで生活をする人々のさまざまな想いを宿し、運ぶものだと思う。過去から現在へ、そして未来へ。あるいは、未来から現在、そして過去へと。だから水辺ではよく何かが起こるのだ。当然だろう。

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