神谷浩史のキャリアにとっての『劇場版モノノ怪』 「もしかしたらこれが最後かもしれない」

妖艶にして華麗なる大奥に、再び怪異の気配あり──。
フジテレビ「ノイタミナ」枠で2006年に放送されたオムニバスアニメ『怪 〜ayakashi〜』の1編『化猫』から誕生し、独自の世界観で多くのファンを魅了してきたテレビアニメ『モノノ怪』。その劇場版3部作の第2弾となるのが『劇場版モノノ怪 第二章 火鼠』だ。
第1作で描かれた唐傘との壮絶な闘いの余韻が残るなか、大奥では突如として人が燃え上がり消し炭と化す怪異が相次いで発生。背後にモノノ怪の存在を感じ取った薬売りは、その三様「形」「真」「理」を突き止めるべく、謀略渦巻く大奥の深淵へと足を踏み入れていく。
前作に続き、謎めいた薬売りを演じるのは、数々の名キャラクターを生み出してきた声優・神谷浩史だ。めまぐるしく展開する第一章と比較すると、第二章は「よりお客さんを喜ばせることに特化したエンターテインメント作品に仕上がっている」と語る神谷。声優として多くの名作で確かな足跡を刻み、今年50歳という節目を迎えた神谷にとって、『劇場版 モノノ怪』はどのような意味を持つ作品なのか。
『劇場版モノノ怪 第二章 火鼠』台本にまつわる裏話

――第一章のパンフレット内のインタビューで、『劇場版モノノ怪』の台本は短い複数のカットに「モノノ怪がくる」「おアサどの」などのセリフがまたがるかたちになっているとお話しされていたと思います。第二章でも同じような台本になっているのでしょうか?
神谷浩史(以下、神谷): そんな感じの台詞ばかりだったと思います。例えば、「隠れるのもまた早い」という一文も、1行で収まりそうなのに3カットに分かれていたり。

――第二章予告編での薬売りの印象的なセリフ、「火の用心」も……?
神谷: そうですね。映像では「火の用心」というセリフに2カット使われていますが、台本の書き方が独特でした。例えば、「火の」の後に読点が入り、「用」と「心」で改行されている。かなり変わった形になっています。「離れろ」というセリフも、本来なら1行で書かれるはずなのに、「離れ」で改行され、「ろ」が次の行に配置されていたり……。こういう書き方には何か意図があるのではないかと、僕は勝手に考えてしまうタイプなんです。例えば、「離れろ」の「ろ」の部分でアクションが入るように設計されているのではないかとか。だから、改行の位置やカットの切れ目には何かしらの意味が込められているんじゃないかと思いながら読んでいました。
――そもそも、こういった台本は珍しいのでしょうか?
神谷: 珍しいと思います。こういう形で台本が作られるのは、『劇場版モノノ怪』か『化物語』くらいですね。僕らにとって、アフレコの際に最も重要なのが台本なので、その台本からどれだけ情報を読み取れるかが課題にもなってくるわけです。第一章を演じた際、僕は薬売りを演じる上で必要な情報はすべて台本から吸収したつもりでした。でも、完成した映像を観たとき、「このシーンのこのカットにはどんな意味があったのか?」と改めて考え直し、台本を読み返してみたんです。
――なるほど。

神谷:そこで、実はすべての答えが台本の中にすでに書かれていたことに気づいて。中村健治監督は、この台本の中ですでに多くのヒントを提示していたんだなと。もちろん、薬売りを演じる上で必要な情報はすべて得ていたつもりでしたが、作品全体をより深く理解するには、もっと読み込むべきだったなとも感じましたね。(台本を手に取り)そして、これが第二章の台本なんですけれども……。
――だいぶ分厚いですね(笑)。
神谷: かなり厚いですよね。でも、第一章の台本はさらに分厚くて。第二章の1.5倍くらいありました。もちろん、第二章のほうが尺が短いので、その分薄くなっているのもありますが、それでも十分なボリュームです(笑)。普通、75分の作品でここまで厚い台本はなかなかないですね。それだけの情報量が、この台本の中に詰め込まれているんです。

――特に第一章は、初めての劇場版ということで、映画館で観て視覚的な情報量に圧倒された観客の方も多いと思います。
神谷: 情報の洪水でしたね。第一章をご覧になった方の中には、少し難解に感じた方もいるかもしれません。「誰が原因でモノノ怪が現れたのか?」という犯人探しのような要素がありましたが、明確に「この人が悪い」と断定できる話ではなかったので。悪意を持って行動したわけではなくても、結果的に誰かの心の中で悪意のように受け取られてしまったり、同調圧力によって状況が生まれたりする。そうした要素が絡み合って、モノノ怪を引き寄せてしまう……といった話でしたから。ですが、第二章は明確に「これが原因で、こういう理由で火鼠が現れた」という分かりやすい展開になっています。つまり、第一章のように複雑な構成ではなく、よりシンプルに『劇場版モノノ怪』という作品を楽しめる作りになっている。だからこそ、台本の情報量もそこまで足さなくても物語が理解できる仕組みになっているんじゃないかなと思います。
――ストーリーとしてはシンプルだからこそ、第二章からでも楽しめる内容になっていますよね。
神谷: そうですね。第一章は、すべてのヒントが絵の中に隠されているんです。そのどこかに気づけば、物語の真相が分かる仕組みになっています。さまざまな楽しみ方ができる映像作品として、少しハードルの高い作品だったかもしれません。第二章は、映像としても物語としても、純粋に「いいものを観たな」と思ってもらえるはずです。第一章は、最初に何も考えずに観て、その後に「どういう話だったんだろう?」と考察する楽しみ方があったはず。でも第二章は、観終わった後に素直に「面白かった!」と劇場を後にできる作品になっています。よりお客さんを喜ばせることに特化したエンタメ作品になっていますし、母親の愛情といったテーマもストレートに伝わると思うので、そこも含めて見どころの一つですね。

――第二章では、新しい老中たちも登場します。
神谷: ある程度完成した映像を拝見して、皆さんのお芝居を聞いたときに、すごく楽しそうだなという印象を受けました。ベテランの老中キャストの皆さんは、僕よりも年齢もキャリアも上の方ばかりで、もし若い頃だったとしても、誰が薬売りを演じてもおかしくないような実力の持ち主ばかりなんです。だからこそ、今の自分が薬売りを演じさせていただいていることを考えると、「将来自分があの老中たちのような役割を担えるのだろうか?」と……。先輩たちは本当にすごいなと改めて感じましたし、彼らがああいう役を楽しそうに演じているのを見て、「努力し続ければ、いつか自分もあそこにたどり着けるのかもしれない」と希望を持つことができました。
神谷浩史にとっての「楽しい芝居」
――作品や演じるキャラクターによっても違いはあると思うのですが、神谷さんの思う「楽しい芝居」とは何ですか?

神谷: 役割に責任が伴うと、大変な部分もありますが、それも含めて楽しいことはあります。ギャグ作品はもちろん楽しいですが、そういう楽しさとは別の次元の楽しさもあって、それを感じるのが「実感を伴う芝居」ができたときです。
――具体的には、どういった瞬間ですか?
神谷: 自分が積み重ねてきたものと、それが求められている環境が整っているとき……あるいは、自分の芝居の限界を超えられたときですね。自分で考える芝居の範囲というのは、ある程度見えているものなんですが、相手が優れた役者だと、その限界を超えられる瞬間があるんです。たとえば、自分の中では「このシーンならこういう音の構成でセリフが出るな」と考えていても、相手のセリフが想定を超えてくると、それに引っ張られて自分でも思いもよらない芝居が生まれることがある。「こういう芝居をぶつけてみてもいいかも」と、新たな発見がある瞬間が、すごく楽しいんですよね。これは役の重さに関係なく起こることなので、掛け合いの醍醐味でもあります。
――「想定していたものを超える」という点では、音響監督や監督のディレクションによっても、さらに変化が生まれそうです。
神谷:音響監督や監督から、自分の想定とはまったく違う指示が出ることがあります。それがただ意外なだけではなく、「確かに、この解釈なら成立するな」と納得できる別の答えを提示されると、すごく面白いなと感じます。やっぱり、芝居は一人では楽しくないんですよね。

――第一章・第二章と拝見して、『劇場版モノノ怪』ならではの豪華な背景美術や音楽なども含め、アニメーションがたくさんの人が関わる中で作られる総合芸術であることを改めて感じました。
神谷: まさにアニメーションは総合芸術なので、1人では絶対に作れません。それぞれの分野のプロフェッショナルが集まり、それを統括する監督がコンダクターのように「こうしてほしい」と指示を出すことで、それぞれの力が発揮され、作品が完成していきます。そして、すべてがうまく噛み合ったときに、素晴らしい作品が生まれるんです。
――監督や他のキャストとコミュニケーションを取る場面で、神谷さんが大事にされていることはありますか?
神谷:中村監督(※第二章では総監督)に関しては、ビジョンがはっきりしている方だと感じていて。だから、もし分からないことがあれば、迷わず「このシーンはどうしますか?」と聞くことですかね。監督のビジョンが明確であればあるほど、それに向かって全員がアプローチしやすくなるので。逆に、ビジョンが曖昧な場合、クリエイターたちの個性がより発揮され、予想以上のものが生まれることもあるかもしれません。
――お互いに頭の中に見えているものを、言語化してすり合わせていくことが大切ということですね。
神谷: そうですね。ただ、すべての答えを求めて一直線に目的地へ向かうことが、必ずしも正解とは限りません。もちろん、それも一つの方法ですが、「とにかくやってみて」というアプローチもあります。その人ならではの個性や発想を大切にするやり方ですね。そういう場合は、まず自分なりの答えを考え、試してみることが大事だと思います。監督が着地点を明確に決めているなら、それに向けて努力すればいい。
逆に「この範囲なら自由に演じていいですよ」と、ある程度の余地が与えられることもあります。そういうときは、自分の解釈で演じて、「この方向で大丈夫ですか?」と確認してみる。すると、「合っているけど、もう少しカッコよく着地してみて」といった具体的な指示がもらえることもあるんです。こうしたやり取りは、やはりコミュニケーションの中で生まれるものですよね。



















