菊池良の『みどりいせき』評:「読みにくい文体」で新たな世界を切り拓く、令和の青春文学
『みどりいせき』は令和の青春文学
その「読みにくさ」は新たな時代の到来を象徴しているのか?
『みどりいせき』は2024年2月に出版された大田ステファニー歓人による小説作品だ。大田は本作で第47回すばる文学賞を受賞して作家としてデビューした。
まず引っかかるのはそのタイトルだろう。「みどりいせき」? すべて平仮名なので意味がとりにくい。この言葉はいったいなにを指しているのだろう。一見すると、「緑遺跡」と読めそうだが、読んでいっても遺跡のことはまったく出てこない。どうやら、「緑い咳」のようだ。「緑い」とは、「緑」を形容詞に変化させたものだろう。赤い、青い、緑い。
高校生の翠は不登校寸前だ。あるとき、小学生のときに同じ野球チームにいた一つ年下の春と再会し、薬物売買の闇バイトに巻き込まれていく。翠自身もバッドトリップを体験しながら、闇バイトは不思議な絆を作っていく。
「闇バイト」「薬物売買」という文字列から社会のアウトサイドを暴露するような小説を想像してしまいそうになるが、本書はそのような一筋縄な物語ではいかない。社会と地続きなアウトサイドの意外な近さと、その境界線上を漂う若者たちの青春ストーリーだ。
大田は本作で第37回三島由紀夫賞も受賞している。
選考委員も認める「読みにくさ」
文学には、それまでの文体をアップデートするような作家が突如現れる。
『みどりいせき』が、とりわけ特徴的なのはすばる文学賞の選考委員が「読みにくさ」について言及しているところである。
「なんだこの小説は、饒舌口語体でとんでもなく読みにくいぞ……」(金原ひとみ)
金原の『みどりいいせき』に関する選評はいきなりこのような言葉ではじまっている。文学賞の選考委員といえば、それまで数々の文学作品を読み込んできたはずである。それにも関わらず、「読みにくい」とこぼしている。では、いったいどのような文体なのか? 読むに耐えない悪文なのだろうか? 実際に本文から抜き出してみよう。
あれは春のべそ。まぁ、そんなわけないし、もしそうなら、みんないつか死ぬ、ってことくらい意味わかんないし、わかんないものはすこし寝かせたい。けど今は眠ってる場合じゃないし、ってなると、目が赤いのも鼻すすったのもたぶん春の方に吹いてった風のせいで、だって強い気流が砂ぼこりを巻きあげたんなら普通に目に入んだろうし、その汚れを落とすための涙が鼻へまわったんなら自然にすするし、流れた雲が太陽を隠して、ふと顔に影が落っこちたんなら表情だって見づらくなんだろうし。(大田ステファニー歓人『みどりいせき』集英社、p3)
これは『みどりいせき』の冒頭の文章である。語り手の言葉がリズミカルにうねりながら、読点で繋がれて進んでいく。「まぁ」「ってなると」といった通常ならば削るような言葉も使い、一文が止まらずにどんどん流れていく。「吹いてった」「入んだろうし」といったラフな言い回しが頻発する。地の文でこれなのだから、会話の部分はもっと砕けているのは言うまでもない。
「饒舌口語体」とも表現されたこの文体は、登場人物の言葉を耳で聴いたかのように文字に起こしている。そこには略語もあるし、造語のようなものもある。そのような言葉が歯切れよく紡がれていく。通常の小説とは、テンポやリズムが違う。そのため、普段読んでいるものを想定して読み始めると、「読みにくい」となってしまうのである。
しかしながら、なぜ「読みにくい」小説が受賞作に選ばれるのか? 通常ならば、文章の読みにくさはマイナスに捉えられかねない。「読みにくさ」はテーマの読み取れなさにつながるかもしれないからだ。しかし、それでも受賞作に選ばれたのは、そこに文学としての革新性を見出したからにほかならない。
すばる文学賞の選考委員は奥泉光、金原ひとみ、川上未映子、岸本佐知子、田中慎弥の5名。奥泉、金原、川上、田中の4名は小説家で、芥川賞を受賞している。岸本は海外文学の翻訳家でエッセイストだ。いずれも現在進行形の文学に深くコミットしている書き手である。
この現役の実作者が選考するという文学賞のシステムが、市場原理とは違う評価軸を出版ビジネスに導入している。そこには売れる、売れないといった経済的な価値はなく、純粋に小説としての芸術的な価値だけが問われる。それゆえ、自ずとハイブローな作品が選ばれる。文学者が選んだ本は、その内容の難解さに関わらず、書店に並び読者のもとに届けられる。
文学賞は、経済原理で動くマーケットに芸術作品を紛れ込ませるある種のハッキングとして機能しているのだ。