AI時代における文芸翻訳の意義とは? 鴻巣友季子に聞く、翻訳家にとって最も大切なこと

翻訳家・鴻巣友季子インタビュー

 エミリー・ブロンテ『嵐が丘』など数々の文学作品の翻訳を手掛け、日本の翻訳界を牽引する存在である翻訳家・鴻巣友季子氏の新刊『学びのきほん 英語と日本語、どうちがう?』(NHK出版)。翻訳をテーマに、英語と日本語の構造の違い、言語の歴史と翻訳の役割、翻訳教育の現場で大切にしていることなどが、深く掘り下げられている。AI翻訳が急速に普及する今、翻訳という営みにはどのような意義があるのだろう。著者の鴻巣氏にじっくり話を聞いた。(篠原諄也)

翻訳は「読む力」が重要な理由

――翻訳をテーマに執筆した経緯を教えてください。 

鴻巣:出版社から「翻訳について基本からわかる本を」というご依頼がありました。これまでに翻訳についての本は何冊か書いてきました。翻訳をめぐるエッセイ集や、原文から翻訳をする実践的なワークショップのような本などです。でも、今回のような翻訳理論の本は書いたことがなかったんです。私はよく「翻訳でご苦労されたことは何ですか」と聞かれるんですが、「苦労」といっても、あまりにも漠然としています。全部が苦労なんだけれど、その苦労が面白くてやっているところがあります。

 そして「翻訳する際に気をつけていることは何ですか?」という質問も多いんですが、これも答えられないんです。というのは、何も気をつけていないからなんです。例えば、泳ぎ慣れた人は泳ぐ時に「どのようなフォームで泳ごう」などと意識しないと思います。それと同じように、翻訳をしている時に気をつけていることといっても、すぐには答えられない。でもよく考えると、大学で翻訳を教える時に学生たちに注意していることが、気をつけていることなのかもしれないと思いました。なので、大学の授業も思い起こしながら書きました。 

――最初の第1章「言語ってなんだろう?」では、言語や翻訳の歴史を論じていました。なぜそのような構成にしましたか。 

鴻巣:大学で授業をしていると、翻訳は単なる英文読解の延長だと思っている学生が多いんです。英文和訳をやってみて、それを上等な表現に変えることが文芸翻訳だと思っている。でも人類の歴史において、翻訳というものは時代を切り拓いてきた。そのように翻訳家が担ってきた役割を考えないと、どうして今ここに翻訳という現象が発生しているのかがわからない。だからその背景にある歴史を知ってもらおうと思いました。まず、そもそも言語とは何なのか。言語は伝達のツールであるだけではなくて、風習や習慣、さらには文化を作り上げるものです。共同体が出来上がる中で、私たちホモサピエンスは、物語というものを作りました。そのように、私たちの文明の形成に寄与したことを理解してほしいと思っています。 

――本書では翻訳において大事なのはまず読む力だと強調していましたが、なぜでしょうか。 

鴻巣:翻訳の良し悪しを決めるのは、語学力ではなく日本語力だと言われることがあります。でもこれはかなり語弊があるというか、誤解を生むと思うんです。日本語の文章力は、自分のオリジナルの文章を書く時には最優先で大事になるでしょう。でも、翻訳は他人からの預かり物を無事にエンドユーザーまで届けることが本分です。自分が文章力を発揮する場とはちょっと違う。まずはその荷物がどんなものかを知ることが大事です。そしてどうやって運ぶのが適切なのかを考えます。壊れものだったらそっと運ばないといけない。ひょっとしたら踊りながら運ぶことが適切な場合もあるかもしれない。

 いずれにせよ、原文と同じような姿で届けることが理想なんです。そのためには、まずは原文を的確に読むこと。その上でようやく日本語力の問題が出てくるんですが、翻訳を十工程に分けるとしたら、九までは読む作業で一が書く作業だと考えています。最後の一で無理にかっこつけた文章にしなくても、しっかり読んでいたら、いい訳文が出てくるんです。逆に言うと、そこでとくに苦心しなくてもするっと良い日本語が出てくる人が翻訳者に向いています。 

――拝読して驚いたのは、学生に「英語の単語の語源まで必ず調べるように」と教えているそうですね。 

鴻巣:調べるまでもなく辞書で語義の最後を見ると書いてありますしね(語源が書いてあるような辞書を使ってくださいということです)。外国語文学科の学生が原文を読むのに語源を調べないというのはあり得ないです。言語や翻訳の歴史を辿ったのと同じように、単語もどういう過程を経て今の使い方になったのかを知っておくべきなんです。例えば、arm(腕)とarms(武器)は同じ語源だと思っている学生が多いんですが、これらは実は異なる由来を持つ言葉です。そうした違いを理解しておくことは、単語の意味やニュアンスを適切に捉える上で欠かせません。 

 よく「言葉のポジションを掴んでほしい」と教えています。語源がアングロサクソン系じゃなく、フランス語(オールドフレンチ)、さらにラテン語やギリシャ語まで辿れるような言葉があります。イングランドはかつてノルマン人の征服を受けた歴史があり、その影響で英語にはフランス語由来の語が含まれています。格式の高い文化的概念など、フランス語から借用していることがあります。わかりやすい例の一つは「tion」で終わる単語です。conceptionやabstractionなどの語は、フランス語、さらに遡ってラテン語が由来である可能性が高い。それらは抽象度の高い観念的な言葉なんですね。 

 「時代」という意味を表す言葉にも違いが表れています。アングロサクソン系の言葉で一番簡単なのは、一つにdaysです。old daysなどと言うと、日常的な言葉です。これがageになると、フランス語のÂgeに語源があり、遡るとラテン語に行き着きます。少し観念的・抽象的な言葉になります。さらにラテン語・ギリシャ語にまで遡れるepochという言葉もあります。days、age、epoch。だんだんとフォーマルな言い方になりますね。だからわざわざepochという言葉を使っているなら、話法のレベルも高いかもしれない。逆に平易な言葉遣いでdaysという言葉を使っている人物がいたら、あまり畏まった訳語は合わないことがある。そのように、言葉がどんなポジションにあるかを知るためにも、語源を調べることは重要なんです。

AI時代の翻訳家志望者に向けて

――AI翻訳が普及していますが、AIについて思うことはありますか。 

鴻巣:これまで外国語は圧倒的な他者でした。それに対しては、勉強するしか太刀打ちする方法がありませんでした。でも、今ではAIがその大部分を肩代わりするようになりました。簡単な通訳や翻訳ならば、質も効率も向上しています。それで海外旅行がしやすくなるのはいいことでしょう。 

 でも人間同士というのは、そもそも通じ合えないものなんです。例えば、日本語で喋っていると、なんとなく通じ合っているように思いますが、実際は誤解をしていることも少なくありません。さらに英語・中国語などの異言語であれば、通じ合うのが大変だということを実感していたわけです。それが今では、AIによってその壁がなくなってきています。 

 すると本来、人間同士が意思の疎通をするのは大変なことで、誤解が起きて当たり前だという大前提が忘れられてしまいます。他の国の歴史や文化を理解することは大変なんだという意識がなくなっていく。相手を理解しようと努力をすることがなくなり、他者という壁に対する耐久力は落ちてしまう。AIも万能ではないので、齟齬や行き違いは必ず起きます。そのように問題が起こった時にどうリカバリーしたらいいかわからなくなってしまう。そういう意味で、他者の多様性を忘れてしまうことが起きていると思います。 

――本書は「英語学習向けの語学書籍とは全然違う」という声も多いとのことでした。英語と日本語の言語的な構造の違い、歴史的・文化的背景な事柄などが論じられています。 

鴻巣:それは私が英語だけを教えているわけではなくて、常に日本語と英語の間を行き来しながら、その言語的な構造の違いなどを教えているからだと思います。私も最初のうちは、翻訳時に気をつけるべきイディオムや構文など、いま思うと予備校のような内容を教えていました。でも、これではダメだなと気がついたんです。もうそれはAIに聞けばすぐに答えが返ってきますし、もっと根本的なことを教えないとAI時代の翻訳講義として成立しないと思いました。 

 アメリカで「翻訳通訳学のハーバード」と言われてきたミドルベリー国際大学院モントレー校(MIIS)が来年閉校に追い込まれることになって、翻訳業界に衝撃が走っています。AIの追い上げが早すぎて、教育システムが追いつけてないのかもしれません。大学は体制を変えるのにも何年もかかってしまいますし、そもそもアメリカは学費が高すぎる。 

 一方、アメリカでは翻訳文学はかつてないほどブームになっていて、翻訳家になりたい人はむしろ増えています。そういう翻訳家志望者がどこに行っているかといったら、有名な翻訳家が主催する小規模なワークショップです。もっと小回りが効いて仕事に直結して、なおかつ大学と違って費用が抑えられる。そこから今、スター翻訳家が生まれつつある状況です。 

 私自身は、AI時代に打ち勝つ翻訳を教えたいという思いで、今回の本を執筆しました。英語と日本語の言語の根本的な違いなど、AIには教えられないような視点を紹介しています。AI時代を生き抜きたい翻訳志望者には、ぜひ読んでもらいたいです。 

■書誌情報
『NHK出版 学びのきほん 英語と日本語、どうちがう?』
著者:鴻巣 友季子
価格:825円
発売日:2025年10月27日
出版社:NHK出版

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