忌野清志郎と仲井戸麗市の不思議な関係性とは? 永原雅之 × 兵庫慎司『忌野くんと仲井戸くん』インタビュー

『忌野くんと仲井戸くん』インタビュー
忌野くんと仲井戸くん
『忌野くんと仲井戸くん』(QANDO)

 忌野清志郎と仲井戸麗市の“文通”を書籍化した『忌野くんと仲井戸くん』が大きな話題を集めている。

 RCサクセション活動休止の4年後の1994年秋にロッキング・オン・ジャパン誌面で連載が始まり、約2年続いた往復書簡31回分を収録。さらに『忌野清志郎画報 生卵』(1995年刊)より、若き日の二人が書いた「文通 1974-1976」も掲載されている。

 リアルサウンド ブックでは、本書を出版するために出版レーベル「DOQAN」を立ち上げた永原雅之氏(株式会社QANDO・代表)、連載当時にロッキング・オン・ジャパン編集部に在籍していて、本書の編集を担当した兵庫慎司氏にインタビュー。30年の時を経て実現した書籍『忌野くんと仲井戸くん』についてじっくりと話を聞いた。

連載を毎月めちゃくちゃ楽しみにしていた

左、永原雅之氏 右、兵庫慎司氏

ーー忌野清志郎さんと仲井戸麗市さんの往復書簡の連載が始まったのが、ロッキング・オン・ジャパン1994年11月号。1994年8月13日に日比谷野外音楽堂で行われた二人の共演ライブ「GRAD ALL OVER」の2ヶ月後でした。

永原:高校のとき、人生で初めて観たライブが「GRAD ALL OVER」だったんです。中学生の頃にRCサクセションにハマったんですけど、そのときはもう活動してなくて。久しぶりに2人がライブをやることになって、立川のぴあに並んで必死にチケットを取りました。

兵庫:僕は観てないんですよね。当時はロッキング・オン・ジャパン編集部にいたんですけど、たぶん渋谷陽一しか観ていないんじゃないかな。プラチナチケットだったし、「みなさん、どうぞ」という感じではなかったので。

永原:武道館ならまだしも、野音ですからね。

兵庫:そうですね。「GLAD ALL OVER」が決まったときにジャパンで表紙にしたんですけど(1994年8月号)、その取材の場で渋谷陽一が2人を口説いて連載が始まったんだと思います。ただ、僕はまったく触ってなくて。連載の担当は、長嶺(林)陽子だったので。

永原:僕はとにかく「GLAD ALL OVER」に感動して。「RCはもうやらないかもしれないけど、清志郎とチャボはまた何かやるかもしれない」と思っていたときに連載が始まったんですよね。さすがロッキング・オンというか、「二人の関係性を途絶えさせてはいけない」というのもあったのかなと。ちょうど雑誌の判型が小さくなった頃ですよね?

ーー1993年末に雑誌の判型がA4判からA5版になったんですよね。

兵庫:その前に一度、雑誌がつぶれかけまして。

永原:えっ?(笑)

兵庫:バンドブームが終わって広告が入らなくなったんです。洋楽のロッキング・オンはブリットポップのムーブメントがあって、すごく売れていたんですけどね。それもあって、会社の上のほうで「(ジャパンは)どうする?」という会議があったみたいなんですが、結局スタッフの数を減らして、判型を小さくして、モノクロページを増やして。経費を削ってジリ貧から再出発したら、ちょうど渋谷系が来たんです。それが上手くハマって、息を吹き返していた時期ですね。

ーー1994年9月号の表紙が小沢健二。その後はソウル・フラワー・ユニオン、CHARA、電気グルーヴ、PIZZICATO FIVE、桜井和寿(Mr.Children)、奥田民生、SPIRAL LIFEなどが表紙を飾っています。新しいスタイルのアーティストがどんどん登場するなか、清志郎さん、チャボさんの立ち位置はどうだったんでしょう?

兵庫:大ベテランではなくて、ちょっと上の偉い先輩くらいだったんじゃないかな。そんなに違和感はなかったと思います。

永原:二人の手紙にも「ここだけ立ち読みして買わない奴もいるらしい」みたいな話が出てきますからね。僕も毎月めちゃくちゃ楽しみで。当時はSNSもないし、やっぱり雑誌かラジオだったので。清志郎さんはちょくちょくメディアで見てましたけど、チャボさんはめったに出なかったし、本人の言葉に触れる機会は本当に少なかったんですよ。もともと清志郎さんの存在を知ったのは、ザ・タイマーズがきっかけで。兄の影響で聴き始めたんですけど、その後、RCを知って。『ミラクル』というライブビデオ(『ミラクル 20th Anniversary』/1990年)を擦り切れるまで観てました。

兵庫:僕は中学の頃に「BLUE」(1981年)や「BEAT POPS」(1982年)をリアルタイムで聴いてましたね。ただ、RCのライブは観たことがなくて。

永原:そうなんですね。

兵庫:はい。1990年にロッキング・オンの入社試験を受けに東京に来たとき、渋谷の街中にRCの「Baby a Go Go」(1990年/事実上のラストアルバム)のビルボード(広告看板)が貼られてたのを覚えていて。入社した頃にはRCは止まっていたんですよね。その後のソロやタイマーズ、忌野清志郎&2・3’sのライブは何度も観てるんですけど。清志郎さんとはほとんど接点がなかったです。渋谷陽一のお供で取材についていったくらいかな。“ロッ研”(忌野のプライベートスタジオ「ロックンロール研究所」)も1度行ったことがありますね。

1冊にまとめて読みたいとずっと思っていた

永原雅之
永原雅之氏

ーーでは、書籍『忌野くんと仲井戸くん』について聞かせてください。永原さんは2023年に『忌野清志郎 魂の言葉展「君だけに書いている手紙」』(主催:QANDO)を開催。今回、二人の往復書簡を書籍にしたのはどんな経緯だったんですか?

永原:僕は編集者ではなくて、QANDOでは広告制作、ブランディングデザインなどを行っているんですが、「世の中の風景を変える」ということをコンセプトにしていて。清志郎さん、チャボさん、RCのパワーをもっと世の中に伝えていきたい、残していきたいという思いもあって、その具体例の一つが「言葉展」だったんです。そのときに清志郎さんの事務所の方と懇意にさせていただいたり、『使ってはいけない言葉』(忌野清志郎の名言集)を出版した百万年書房の北尾修一さんとも接点が出来て。北尾さんとお話させていただくなかで改めて書籍の魅力を実感して、本づくりに携わってみたいと思ったんですよね。いろいろ企画を考えるなかで、あの連載が書籍化されてないことを思い出して。1冊にまとめて読みたいとずっと思っていたし、もし実現できたら、自分がうれしいなと(笑)。

ーー清志郎さんとチャボさんの往復書簡が本になっていなかったのは、ちょっと不思議ですよね。

兵庫:そういうことが多かったんです、ジャパンは。あとで単行本になっている連載の方が少ないんじゃないかな。電気グルーヴの「メロン牧場」なんかはすぐ本にしたんですけど、僕がジャパンで担当していたフラワーカンパニーズの鈴木圭介の連載(「フラカンけいすけの卑屈王」)は本にしなかったし、他の出版社から「エッセイ集(『三十代の爆走』)に入れたい」と打診があったときにあげちゃったんですよ。清志郎さん、チャボさんの連載はたぶん、ご本人たちに「単行本にするのはちょっと」というのがあったんじゃないかな。なので“今だから”というのはあると思います。

永原:それはあるかもしれないですね。

ーーこの本のために仲井戸さんが寄稿した文章(「前略 忌野くんへ」)にも「ずいぶん以前から、RC関連や、君、俺、俺たち関連の「作品」は、もうそっとしておいて欲しいってな心境、気分になっていた、いる。」とありますね。

永原:清志郎さんの事務所を介してチャボさんの事務所をご紹介いたいだいたときも、最初はそんなニュアンスでした。でも、間に入っていただいたセブンスマザーの伊藤恵美さんにもご尽力いただいて、出版できることになって。

ーーそして兵庫さんが編集を担当することになった、と。

兵庫:10年ぶりに本の編集をしました。永原さんとはまったく面識がなかったんですけどね。DISK GARAGE(DI:GA ONLINE)でやっている連載(兵庫慎司のとにかく観たやつ全部書く)の担当者にメールしたんですよね?

永原:そうです。兵庫さんの連載も読ませていただいていたし、そもそもロッキング・オン・ジャパンでウルフルズやフラカンの原稿をずっと読んでいたので。

兵庫:DISK GARAGEの担当者から「兵庫さんに本の編集をしてほしいというメールが来たんですが、連絡先をお伝えしていいですか?」と連絡が来て。そのときは「なんで俺?」と思ったんですけど、よく考えてみると、当時のジャパンにいて、今はフリーで編集ができそうな人って他にいないんですよね。引き受けそうな人は自分くらいしかいないのかなと。

永原:いやいや、ぜひ兵庫さんにお願いしたかったんですよ。兵庫さんが編集されたチャボさんの歌詞集(『MY R&R 仲井戸麗市全詩集 1971-2010』)もすごくカッコイイ本で。あとがきでチャボさんが“兵庫ががんばってくれた”という趣旨のことを書かれていたのも印象に残っているし、とにかく兵庫さんに連絡を取ろうと。

兵庫:僕はロッキング・オンをやめてフリーになって10年なんですが、編集はやらないと決めていたんです。情けない話ですけど、編集者としてはポンコツだという自覚があったので。永原さんにお会いしたときも断ろうと思ってたんですけど、話を聞いてたら「たぶん、自分がいちばんちょうどいいんだろうな」と思いはじめて。本当は連載を担当していた長嶺(林)陽子が適任なんですけど、そのことに気づくのが遅かったんですよ。彼女は沖縄在住なんですけど、今も編集者をやっているので。

ーー林さんはこの本の校正を担当されてますね。

兵庫:入稿がそろそろ終わるという頃に、渋谷陽一が亡くなったんです。献花会で長嶺と会って、そのときに「こんな本を作ってる」と話したら、「手伝うよ」と言ってくれて、「マジで? 校正やって」ってお願いしたんですよ。そのときに「あ、この人に編集してもらえばよかったのか」と気づいたんですけど、もう遅かった(笑)。あと、装丁も当時のジャパンのアートディレクターだった山本知香子に頼みました。最近だと竹内まりやさんのアルバムジャケット、雑誌「GINZA」のアートワークなどを担当している売れっ子のデザイナーですね。

永原:おおくぼひさこさんも、新たに写真データを作ってくださったんです。SNSなどでも「この写真を見ただけで泣けてくる」という感想があって。おおくぼさんにご協力いただけたこともすごい宝物だなと。

ーーRCサクセションの写真と言えば、おおくぼひさこさんですからね。

二人の不思議な関係性

ーー本になった『忌野くんと仲井戸くん』を改めて読んで、どんなことを感じられましたか?

永原:いろいろあるんですけど、やっぱり「自由だな」と思いますね。すごいロックスターなのに、あけすけに日常のことを書いていて。重版したときに松尾スズキさんから推薦コメントを頂戴したのですが、そのなかにお二人のことを“自由の本体の姿だったのだ”と書かれていて、まさにそうだなと。パブリックイメージに引きずられるのではなくて、感じたこと、言いたいことを言えばいいじゃんっていう。そういう自由さもお二人のカッコ良さなんだと思います。

ーー清志郎さん、お子さんのこともかなり書かれてますよね。

兵庫:それ、当時は一部のRCファンから嫌がられてたんですよ。

永原:そうですよね。今からは想像し難いかもしれないけど、清志郎さんにはアイドル的な人気もあったので。

ーー兵庫さんはどうでしょう。今、二人の手紙を読んで、当時とは違う印象もあったりしますか?

兵庫:自分のnoteにも書いたんですけど、当時はただ楽しく読んでたんです。でも、今思うと「異常だな」という気がします。RCは活動休止してましたけど、実際は解散ですよ。そのタイミングで「文通をやってよ」って言う? 普通は「は?」ですよ。

永原:そうですよね(笑)。

ーー渋谷陽一さんだから、そんな無茶なオファーができた?

兵庫:それもあるし、お二人の不思議な関係性もあると思います。アルバム『Memphis』の頃だったかな、インタビューで、渋谷陽一がRC休止の理由を根掘り葉掘り聞いていて。それを読むと「しばらく休んで、またやろう」ではなくて、どう考えても解散なんですよ。もう一緒にはやれないんだけど、友達関係は続いているし、少なくとも憎しみ合っていたわけではない。だからこの連載を引き受けたんでしょうね。

ーー往復書簡を読んでも、すごく仲良さそうですよね。

永原:独特の関係性があったんだと思います。「GLAD ALL OVER」の渋谷さんのインタビューが載ったときの編集後記で、確か山崎洋一郎さんが「3人が和気あいあいと話していて、さすが渋谷陽一だなと思ってたら、帰りに渋谷が“めちゃくちゃ疲れた”と言ってた」みたいなことを書いていて。信頼感があるゆえの緊張感があったんでしょうね、たぶん。

90年代の二人の活動

兵庫慎司
兵庫慎司氏

ーー90年代中盤の清志郎さん、仲井戸さんの活動の様子がわかるのも興味深かったです。清志郎さんはザ・タイマーズを復活させたり、忌野清志郎 Little Screaming Revueを立ち上げたり、ナッシュビルでレコーディングしたりと精力的に活動を行っていて。メジャーレーベルへの不満や「これからはインディーズだ」ということも書かれてますね。

兵庫:この連載が終わった後、もっと過激になっていくんですよ。

永原:往復書簡が連載されていた時期には“シングル3連発”(「君にだけわかる言葉」「Good Lovin’」「世界中の人に自慢したいよ」)もあったんですけど、あまり売れなかったんですよね。「Baby A Go Go」のときと違ってプロモーションも少なくて、「どうなってんだ?」という怒りもあったのかなと。どれもすごくいい曲なんですけどね。

ーー清志郎さんにもそういう時期があったんですね。

兵庫:そういう時期ばっかりなんですけどね、考えてみると。デビューしても「ぼくの好きな先生」以外は売れなかったし、その後、ホリプロを辞めるというので飼い殺しになった時期もあるし。

永原:「シングル・マン」の頃ですよね。一時期は廃盤になっていた。

兵庫:そうですね。レコード会社もかなり移ってるし、よく言えば業界と戦ってきた、悪く言えばケンカしてきた人でもあると思います。

ーー清志郎さんは「なにしろこの雑誌には、マザコンみたいな文章を書く変なライターがたくさんいて」とも書いてますね。

兵庫:音楽メディア全般が好きじゃなかったんだと思います、基本的に。ジャパンもリリースのたびに表紙にしていたかと言えば、そうではなくて。“2・3’S”も1回表紙になってますけど、「GRAD ALL OVER」のときが最後じゃなかったかな。

永原:渋谷さんが立ち上げた「bridge」では表紙になってましたけどね。「忌野清志郎の10曲」という特集もあって。

兵庫:そうですね。当時、ジャパン本誌では渋谷系などのアーティストが中心だったので、そこも気に入らなかったのかもしれない。

ーー90年代の仲井戸さんの音楽活動については?

兵庫:ソロアーティストとして、すごく盛り上がってた時期だと思います。アルバム『DADA』(1993年)を出して、ちょうど「PESENT」シリーズ(95年から97年にかけて発表されたミニアルバム・シリーズ)の頃なので。麗蘭(仲井戸麗市、土屋公平によるユニット)でも、ライブとかやっていたし。

永原:ソロライブ「密室」もやっていたし、CHABO BANDが始まった頃でもあって。ジャパンでメンバー募集してましたよね? それで清志郎さんがラジオで「応募しようかな」って言ってましたよ。

ーーそういう話を聞くと、二人が一緒に音楽をやる未来はなかったのかな……と思ってしまいます。

兵庫:清志郎さんが病気した後は、ライブで一緒にやってましたよね。曲も一緒に作っていて、アルバム『夢助』に入っている「激しい雨」という曲には〈RCサクセションがきこえる〉という歌詞もありました。

永原:2008年のフジロックは、チャボさんと一緒に出る予定だったんですよね(※)。BLUEDAYHORNSも参加して、バンドの構成的にもRCに近いものになるはずだったんですけど、キャンセルになってしまって。すごく楽しみにしていたので、本当に残念でした。(※2008年のフジロックに「忌野清志郎 & NICE MIDDLE with NEW BLUE DAY HORNS plus 仲井戸“CHABO”麗市」として出演予定だったが、忌野のガンの再発によりキャンセル)

ーー清志郎さんがこの世を去ったのは2009年5月。現在も社会的な問題が起きるたびに「清志郎だったら、どんな歌を歌っただろう」という話が飛び交いますが、その影響力についてはどう感じていますか?

兵庫:清志郎さんは、思ったことを言ってただけなんですよ。「原発はイヤだ」も「子供がかわいい」も清志郎さんにとっては全部一緒。「これは言わないほうがいい」はなくて、全部言いっぱなし。それが良いときもそうじゃないときもあるけど、全部込みで「言っちゃえばいいんだよ」という人なんですよね。昔のインタビューでも「特に思想とかなくても、歌っちゃったもんの勝ちだよね」と言ってますけど、まさにそういう人なんだと思います。だからこそ、アナーキーなカッコ良さがあったんですけどね。

永原:まったく同感です。自由なんですよね、やっぱり。僕自身も、そういうところにすごく影響を受けていて。今回の書籍もそうですけど、ダメだと決めつけずに、自分がやれるところから行動を起こしてみるのが大事だと思っているので。

ーーRCサクセションを知らない若い人たちにも届けたいメッセージですね。

永原:そうですね。清志郎さん、チャボさんの言葉のパワーはすごいなと、僕も改めて感じていて。今の若い人たちも勇気をもらえると思います。

兵庫:RCは知ってるけど、そこまで追いかけてなかった人たちにも読んでほしいですね。こんなに面白くて、特殊な関係性でやってたんだなとわかってもらえると思うので。

永原:そうですね。一つだけ心残りなのは、渋谷陽一さんの感謝を載せられなかったことで。入稿がほぼ終わった頃に亡くなられたので、間に合わなかったんです。

兵庫:印刷の工程上、無理だったんですよね。

永原:そういう意味でも、チャボさんにコメントをいただけたことは本当によかったと思います。最後に「渋谷にもよろしくな」と書いてくれて、すごいことだなと。

兵庫:2、3行くらいのコメントをもらえたら充分だと思っていたんですけど、ちゃんと書いてくださって。

永原:ありがたかったです。今のチャボさんのライブも素晴らしいので、ぜひ観てほしいですね。

■書誌情報
『忌野くんと仲井戸くん』
価格:2,200円
発売日:2025年11月4日
出版社:QANDO

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