アニメ評論家・藤津亮太が語る、戯作者としての富野由悠季「人間の限界を拡張するのは科学技術であるという発想がある」

アニメ評論家・藤津亮太が語る富野由悠季論

ロボットの大きさの変化と、作劇の繋がり

──なるほど。細かい登場人物の心情を書くのではなくて、ハイスピードで心情と行動を描写して、それを積み重ねることでストーリーを語る作家なんですね。もうひとつお伺いしたかったのが、富野作品に登場するロボットの大きさについてです。『ザンボット3』『ダイターン3』では巨大だったロボットが、『ガンダム』では18mほどになり、『イデオン』では極大、『ザブングル』では重機的に大小が混在し、『ダンバイン』では7〜8mほどになります。その後『Zガンダム』『ZZガンダム』ではモビルスーツがどんどん巨大化・複雑化し、『逆襲のシャア』では最も大型になりました。以降『F91』『Vガンダム』ではまたモビルスーツが小さくなり、『ブレンパワード』『キングゲイナー』では10〜7m程度になりました。このロボットの大きさの変化と、作劇の繋がりについてもお伺いしたいです。

藤津:まず大前提として、富野監督はロボットの大きさについて「パイロットとメカが自然に絡めるサイズがいい」ということをずっと言ってるんですよね。で、『ザンボット3』あたりの子供向けアニメのメカのサイズや重量って、児童向けに「これはすごいロボットなんだぞ」っていうのをわかりやすく理解させるための数字なわけです。「コンバトラーVは57mだぞ」って書かれても、実際に57mの物体として常に空間の中で描写されてるわけではない。「すごく大きいぞ」ということを伝えるための数字なわけです。スペック通りの大きさで描くことを目的としていないんですね。

──それはそうですね。

藤津:『ガンダム』ではそういう児童向けの描写ではなく、できるだけ「18mのロボット」として描く努力をしているわけですが、実際にキャラクターと並べて画面に出してみると、そこまで人間とロボットが絡むシーンは作れない。なので、『ダンバイン』の時はメカをデザインした宮武一貴さんとコンセプトから詰めて、「一定サイズのフィギュアがロボットの横における、人間とロボットが同じ空間を共有できるものがいい」という方針を打ち出しました。その方針が、そのまま『F91』以降のモビルスーツの小型化につながっています。で、同じ時期からモビルスーツのコクピットが胸元の高い位置になるんですよね。

──確かに、初代ガンダムではお腹に近い位置でしたが、F91もVガンダムもコクピットは胸部ですね。

藤津:モビルスーツの顔と同じ画面にコクピットを収めやすい位置なんですよね。キングゲイナーとかも同じ流れにあると言っていいと思います。やはり演出家としてはロボットと人間を絡ませやすいサイズにしたいんでしょうが、これはアニメーターさん的には難易度が上がるんですよね。普通は作業効率を考えると、人間が出てくる空間とロボットが動く空間を分けたくなると思います。でも、富野監督には「人間とロボットを分離させたくない」という考えが根っこにある。

──確かに、『ガンダム』でも人とモビルスーツの絡みは多かったですし、『F91』以降の作品ではその傾向をより強く感じます。

藤津:そういうシーンで言うと、『キングゲイナー』第1話のゲイナーがキングゲイナーに乗り込むシーンとかは相当難易度が高いんです。アニメーターさんもなんだかんだでガンダム的なサイズのロボットが標準になっているから18mくらいのロボットが一番描きやすいし、キングゲイナーくらいのサイズだと人間との対比を掴むのが大変なんだそうです。だからゲイナーがキングゲイナーに乗り込むシーンは、吉田健一さんがご自身と同じスタジオジブリ出身のアニメーターである安藤雅司さんにお願いして描いてもらってます。吉田さんは、富野監督がここで何を見せたいか、そしてそれがどのくらい難しいかを理解していたんでしょうね。

──いかにして人間とロボットの絡みとして新しいものを提示するか、という課題に挑んだ結果という感じですね。

藤津:それとは別に、富野監督ってでっかいロボットは好きなんですよね。だからモビルスーツとは別にモビルアーマーというメカのカテゴリーも作ってるわけです。『逆襲のシャア』でも、大型メカとして知られるα・アジールはメカニックデザイナーの出渕裕さんが「富野監督ってこういうの好きでしょ」っていう意図で描いたものだという話なので。それがちゃんと刺さったから、劇中にあれだけ登場したわけです。

──そういったメカのうち、富野監督がメモ的なラフを描いて、デザイナーがブラッシュアップしたものも相当数ありますよね。そういった、「メカデザイナーとしての富野由悠季」という側面もあると思うのですが。

藤津:多分、富野監督のああいったラフって、ゼロから思いついたとか、現実世界にあるメカを作中に置き換えたとかではなく、たとえば「アメリカを旅行した時に見かけたサボテンのシルエットが元ネタ」とか、そういう形で思いついたものが多いというふうにも聞きます。形の面白さを追求しているんだけど、同時に以前見て面白いなと思ったものをメカにスライドさせていることが多い。たとえばそれが、最初の『ガンダム』でスポンサーから「ザク以外のものも出せ」ということになって怪獣的な悪役を考えなくちゃいけなくなった時に、ぽろっと出てくる。多分、普通のメカデザイナーがプロとして行っている思考方法とは、ちょっと違う発想から生まれているんだと思います。

──そういった、スポンサーにせっつかれてアドリブ的に出したメカもありますが、一方でコンセプトから作品世界に沿わせているものもありますね。キングゲイナーは、まさにその例だと思います。

藤津:そうですね。あれはマッスルエンジンと骨格が芯になっていて、その上から服を着ているというアイデアですから。ただ、キングゲイナーに関しては、富野監督が描いた具体的なラフはそんなにないはずなんですよ。そのコンセプトを聞いて、あきまんさんがかなり挑戦的でストリートの感覚を取り入れたデザインをしている。その辺の、あきまんさんのデザインの軸のずらし方が、富野監督はかなり好みなはずなんです。メカをメカの範疇だけで考えてデザインしない感じというか。メカデザイナー的なところじゃないところから色々なディテールを決めていくというそのデザインの幅が、富野監督とあきまんさんが長く仕事をしている理由ではないかと思います。

──非常に納得のいくお話です。

藤津:でも一方で、富野監督は「メカ的な合理性をしっかり考えることができる」というメカデザイナーの強みを必要とするところもあるんです。そういうタイプのスタッフで富の作品によく参加しているのは、山根公利さんとかがいますよね。作品世界に厚みを出すために合理的できっちりしたメカがほしい場合と、キャラクター性が強い主役級のメカがほしい場合とで、富野監督が求めるものが違うんだと思います。

富野監督は「アンチテーゼの人」

──それについても、「こういうメカがほしい」というビジョンが明確だからできる使い分けですね……。まだまだ色々お伺いしたいことはあるんですが、もうひとつ、最近は『GQuuuuuuX』をきっかけにして『ガンダム』や富野作品を見てみたいという若い人もいると思います。そういった方に向けて、どれか一作おすすめするなら、どの作品でしょうか?

藤津:富野作品ということでしたら、やっぱり最初の『機動戦士ガンダム』ですね。あれは富野作品というカテゴリーを外したとしても、『七人の侍』とかと同レベルで「見ておくべき作品」と言えると思います。癖が強くなくて、富野監督以外のスタッフのクリエイティブも充実しているところがたくさんある。確かに古い作品ではあるんですが、でもやっぱり非常によくできているので、一番おすすめしやすいと思います。そこから「もうちょっと深みにはまりたい」ということになると、次に何をおすすめするのか非常に悩ましいんですが(笑)。

──『ガンダム』で言えば、劇場版とテレビ版ではどちらが初心者におすすめでしょう?

藤津:劇場版の方が話の流れがスッキリしているし、映画3本だけなので、まずは劇場版でもいいと思います。ただ、テレビ版だけのエピソードにいい話があったりするので、時間があるのであればテレビ版からというルートもアリなんですよね。最近話題のシャリア・ブルも、劇場版だと出てきませんから。……ただ、劇場版は追加されている新規カットが素晴らしいんですよね。

──自分は14話の『時間よ、とまれ』の回が好きでして、あれはテレビ版にしかないんですよね。ジオン兵が最後にみんなでガンダムを見にいくところの人間味がいいな……と思ってるんですが。もう、「どっちも見てください」っていう感じですね。

藤津:あの回のラスト、ブライトさんが「あの連中だな」って勘付いてるのもいいんですよね。テレビ版と劇場版の違いで言うと、劇場版はニュータイプありきで話を構成しているところがあるんで、演出にブレがないんです。でもテレビ版の時には、スタッフが「よくわかんないね」ってみんなで言いながら作っている感じがある。実際、主要スタッフが「ニュータイプってよくわからなくて」みたいなことを、放送終了直後に発売されたムック『記録全集』で言ってたりするんですよ。だからテレビ版は、テキサスコロニーが舞台のところで、結構ノイジーな効果音が使われたり、独特の雰囲気があります。そういう部分は劇場版では整理されてしまっているので、「主要スタッフも手探りでニュータイプを表現しようとしている」という部分はテレビ版にしかない要素ですね。逆にこれを見てから劇場版を見ると、「洗練されたな」というところも味わえると思います。

──今ってもうニュータイプ関連の演出が固まっちゃってますが、確かにテレビ版ではそのへんがまだけっこう未整理なんですよね。そこは確かに面白いところだと思います。

藤津:しかしこうやって議論してる時点で、なんというか「病膏肓に入っちゃった人間同士の会話」と言う感じもしますね(笑)。

──ですね……! では最後にもうひとつ、「富野由悠季という監督は、一言で言うとどのような監督か」という点もお聞きしたいです。

藤津:この本の後書きにも書いたんですが、「アンチテーゼの人」ということは言えると思います。なにかひとつテーゼがあった時にそこに必ずアンチテーゼをぶつけて、そうやって何かものを考える、という人ですね。

──具体的にはどういうことでしょうか?

藤津:『逆襲のシャア』が一番わかりやすいと思いますが、まず「地球にしがみついているようなしょうもない人類は、もういなくなった方がいいんだ」というテーゼがあります。そこに「ちょっと待て、それは極端じゃないか」というアンチテーゼをぶつけるわけですね。この揺れ動きがストーリーの主題になるわけですが、一方で富野監督には「自分は文学者や哲学者ではなく、エンターテイナーである」という自覚もある。自分が作っているものはエンターテイメントだという自覚があるので、過激な方向に行ってエンターテインメントの枠からはずれそうになると、シュッと逆側に戻るし、最後は希望の持てる終わり方に落ち着く。この揺れ動きが富野作品だなあと思います。そして、たまにこういう手つきからこぼれたようなシビアなラストシーンの作品が現れる時があるのも、富野作品の面白いところですが。

──人類に対して絶望する気持ちもあるけど、それではいけないんじゃないかという人類に対する期待もまたあるわけですもんね。それがシャアとアムロのセリフに出ているわけですが。

藤津:富野監督って「人類全体が増えすぎて地球を食い潰すかもしれない」「人類はもっと数を減らした方がいいんじゃないか」という点は一貫して思っている。日本の少子化というのはあくまでローカルな話であって、富野監督の目線は常に地球全体に対して据えられている。でも、「人類はもっと数を減らした方がいい」という一番過激な思いは、決してそのままフィルムにはならないんです。それは思想であって、戯作でもなんでもないから。そこでアンチテーゼを抱えたもう一人の自分が出てきて、さらにエンターテイメントとは何か、どういう結論に行き着くべきかということを見据えながら作品ができあがっていくという感じですね。

──地球全体の行く末にギリギリの思考を巡らせた作品群を作ってきたという意味では、今こそ富野作品について語られるべきなのかもしれません。

藤津:富野監督って、これだけの偉業を成し遂げた人なのに、その仕事について論じている本がほとんどないんですよ。わかりやすく言えば、宮崎駿さんの語られ方と比べると、著しい隔たりがあるんです。多分テレビシリーズの仕事が多くて、全話見るのが大変ということなんだと思いますが(笑)。でも、だからこそ僕は「みんな見てくれよ」と思っているんです。今回の『富野由悠季論』は、富野作品をすごいなと思いつつ育ってこういう仕事に就いてしまった以上、どこかで「作品を通じて決定的な体験をした」ということの恩義を返さなくてはというか、責任を取らなくてはという気持ちで書いたところがあります。

──この本をきっかけに「アニメ監督としての富野由悠季」にスポットがあたって、正当に語られるといいですね。本日はありがとうございました!

■書誌情報
『富野由悠季論』
著者:藤津亮太
価格:2640円
発売日:3月21日
出版社:筑摩書房

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