アニメ評論家・藤津亮太が語る、戯作者としての富野由悠季「人間の限界を拡張するのは科学技術であるという発想がある」

アニメ評論家・藤津亮太が語る富野由悠季論
藤津亮太『富野由悠季論』(筑摩書房)

 アニメ評論家・藤津亮太による書籍『富野由悠季論』(筑摩書房)が、3月21日に刊行された。タイトルの通り、富野由悠季がこれまでに制作してきた数多くのアニメ作品について、真正面から論じた一冊である。

 本書の特徴は、あくまで「アニメ監督としての富野由悠季」について語られた本であることだ。富野に関する書籍は多数が発売されているが、多くは富野と識者との対談や富野本人が書いたもの、文化人としての富野について書かれたものだった。「アニメ監督としての富野由悠季は、どのような作品を作ってきたのか」「富野作品はどのように変化してきたのか」といった、富野の仕事そのものについて論じた書籍は、驚くほど少ないのである。

 その現状に対し、一石を投じた内容となっている『富野由悠季論』。では、著者である藤津はなぜこのテーマに取り組み、富野とその作品のどこに魅力を感じているのだろうか。藤津本人に、この労作が生まれた背景と富野作品の面白さについて語ってもらった。

テクノロジーが人間と世界を直接つなぐというテーマ

藤津亮太

──この『富野由悠季論』、そもそもどういった経緯で書かれた本なのでしょうか?

藤津亮太(以下、藤津):そもそもの発端は、塩漬けになっていた富野監督に関する原稿なんです。「アニメ演出家」をテーマにして色々な人が原稿を寄せる本を出すという話で、自分には富野監督について書いてほしいというオファーでした。それで、2019年の夏頃に原稿を書いたんです。富野監督ってご本人が面白い人だから、政治や文明に対する意見とかがフィーチャーされがちですが、それを抜きにしてもそもそも富野監督は大変興味深い演出家なんです。だから、その演出の手腕がどう確立したかをテーマにして、4万字ほどの原稿を書きました。

──文化人的な側面ではなく、演出家としての富野由悠季の技術について解説するというのは、本書のテーマの半分をフォローしていますね。

藤津:そうです。その時に書いた原稿は『富野由悠季論』の3章、『ザンボット3』前後の仕事を解説したあたりの原稿のベースになっています。ところが、いろいろ事情があって結局その本が出なかったんですよね。で、ご縁があって筑摩書房から『「アニメ評論家」宣言』を増補改訂した文庫版が出て、それで引き続きお仕事ができるといいですねという話になった時に、そういえば塩漬けになっていたこの原稿があるから、これに内容を付け足して10万字にすることはできるな……と思いまして。それなら一冊分の企画になるということで、企画を提案したのが2022年のことですね。

──「戯作者としての富野由悠季」について書くという方針も、その時に決まったんですね。

藤津:富野由悠季という演出家がどうやって成り立ったのか、という本の柱はその時点で一本立っていたんですが、もうひとつ「富野監督が作品の中で自分の描きたいテーマをどう扱ってきたか」という柱と両輪で考えないとダメだろう、ということであとから、富野監督がしばしば語る“戯作者”についても考えようと考えていきました。富野監督が実際にフィルムの中で何をやってきたかを検証するためには、演出とは別に作品内のテーマがどう変化してきたかを書かなければならない……というのは、2019年に一度原稿を書いたことで自分の中で掴めたんです。ではそれを全面的に展開すればどうだろう、10万字くらいにはなるだろうと思って書いたら、倍以上のボリュームになってしまいました(笑)。

──もっと軽い本になる予定だったんですね。それがここまで膨らんだ理由は?

藤津:やっぱり、説明が必要なことが多かったんですよね。例えば、『機動戦士ガンダム』にはニュータイプという概念が出てきますが、このトピックに関する概略はもう自分の頭の中にはあるんです。でもいざ富野監督の考えがどう変わってきたのかを人に説明しようと思うと、「そもそも富野監督はニュータイプという概念をいつ思いついたのか」とかから説明しないと伝わらない。『ガンダム』についても最初は1章分のボリュームを想定していたんですが、書き始めて「なぜ『ガンダム』には"リアリティ"があると言われているのか」を説明するだけで相当の文字数が必要なことに気がついたんです。さらに「ニュータイプ」という概念を取り入れたお話づくりについても検証しなくちゃいけないし、それをやろうとしたらもっと前のところから書かないとわからない。「脚本ではこういう形だったものがコンテでこうなり、本編でこうなった」ということを説明しようと思うと、まず富野監督のメモとか企画案の段階まで遡って、監督の思考の動きや他のクリエイターとの共同作業がどう行われたかを説明しなくてはならないんです。そこを説明し始めたらゴリゴリ文字数が増えました。

──すごい労作だと思いつつ読んだんですが、そんな経緯があったんですね……。では、この本の見どころはどのあたりなんでしょうか。

藤津:今まであまり言及されていないことについて書いたかなと思っている部分で言うと、『機動戦士ガンダム』と『機動戦士Zガンダム』の違いというのはあります。『ガンダム』と『Zガンダム』って、続編のはずなのにかなり雰囲気が違う。時代が違う、スタッフの編成が違う、というのが従来挙げられていた雰囲気の違いの理由なんですが、本書では「お話の作り方という点で、『ガンダム』と『Zガンダム』の間に『伝説巨神イデオン』と『聖戦士ダンバイン』を経ていることで大きな変化があり、それが『ガンダム』の続編なのに雰囲気が異なる理由である」という話を書いています。

──確かに、従来ではあまり聞かない論の立て方ですね。

藤津:詳しくは本を読んでいただきたいのですが、『ガンダム』は企画書の段階ではニュータイプというアイデアは書かれていませんでした。が、『イデオン』では企画書段階から「イデ」という集合精神の概念があって、それをめぐる物語を描くというのが決まっていたんです。逆に『イデオン』の企画書にも、ガンダムみたいな「青春群像を描く」みたいな文言は入っていない。『ガンダム』でニュータイプというアイデアに手を付けて、『イデオン』ではさらに意識的に踏み込んで「人間の意思とテクノロジーが組み合わさって、世界そのものの理を感じさせるビジョンに至る」ということ初めてテーマにした。それは『ダンバイン』でも変奏しようととしました。わかりやすいところだと、『ダンバイン』にはオーラ力という概念が登場しますが、それはオーラマシンに乗って戦う時に意味をもつのであって、生身の状態では超能力的に描写されることはほとんどないんです。オーラ力を持ったキャラクターにオーラマシンというテクノロジーが介在することで、バイストン・ウェルという世界の本質に接近できるとい構造になっています。これはイデが異星人のテクノロジーの結果生み出されたことの延長線上にある考え方で、『Zガンダム』のニュータイプ描写が『ガンダム』よりも超能力者じみたのは、テクノロジーが人間と世界を直接つなぐという『イデオン』『ダンバイン』で得た戯作者としてのテーマの延長上にあるからだと言えるんです。

──確かに、『Zガンダム』以降のニュータイプ描写の質感って、『ガンダム』とはかなりテイストが違うんですよね。

藤津:なので『Zガンダム』のニュータイプは、『イデオン』『ダンバイン』で描いた「人の意思と科学技術が組み合わさり、それによって世界のビジョンに触れられる」という試みの流れの中にあって、この三つが一連の流れになっている。これはある理由でわかりにくく なっているんですが、資料にあたっていくと、この頃の富野監督がどんなビジョンを持ってどんなことをアニメの中でやろうとしていたのか、割とクリアになると思いました。この部分の整理はあんまり言われていないことだと思います。で、ここを整理すると、『戦闘メカ ザブングル』と『重戦機エルガイム』は少し傍流というか、当時の富野監督の思想が『ダンバイン』よりは薄い作品ということになるんです。

──単なる超能力ではなく、テクノロジーが介在して世界のビジョンに触れるというのは、富野作品において大きいポイントですよね。同時代の『AKIRA』みたいな作品にもエスパー的な超能力者が出てきますが、別にロボットには乗っていないですから。

藤津:ご本人に聞けば、「それはロボットアニメにするための方便だよ」って仰ると思うんですけど、一方で『イデオン』の時には「イデを神にしない」と言ってるんですね。あれは科学的に作られた一種の「場」であると。元ネタの『禁断の惑星』での「イドの怪物」もそうでしたが、イデの力についてもあくまで科学技術の産物であって、テクノロジーが介在しているんです。超常的なものを描くにしても、神様が出てきたりオカルト的なテイストにはしない。そういう意味では、富野監督は「人間が科学技術でもって限界を突破していった先にあるものを題材にする」という監督なんです。これは世代的なものかもしれませんが、富野監督には「人間の限界を拡張するのは科学技術である」という発想が根底にあると感じました。

『機動戦士Gundam GQuuuuuuX』と小説版『機動戦士ガンダム』

──そういった富野作品なんですが、『機動戦士Gundam GQuuuuuuX』が公開されたことで「初めて初代『ガンダム』を見る」という人も増えています。富野作品に初めて触れるという人が、注目すべきポイントを教えてください。

藤津:人間関係のニュアンスですね。戦闘シーンにおける殺陣の面白さもあるんですが、これは参加した作画スタッフの腕によるところも結構あると思います。それに対して人間関係のニュアンスは、「この人とこの人はこういう関係にあります」という点を、セリフではなくちょっとした芝居や行動で示すのは、富野作品の持ち味です。一番大事なところを伏せておいて、その周囲の組み立てから人間関係を浮かび上がらせるという方法を取るので、ニュアンスに注目することで水面下のドラマが理解できるんです。

──そういった特徴は、具体的にはどういうシーンに現れているんでしょうか?

藤津:この本に書いたものだと、『ダンバイン』の16話「東京上空」でのショウの父母の描写ですね。ショウが異世界バイストン・ウェルから地上に戻ってくる直前、ショウの父親とその愛人らしき秘書の絡みと、そこに予定より早く帰ってきたショウの母親の会話というのが入っています。このシーンのセリフはそこまで含みがあるものじゃないんですが、トータルの演技やセリフの裏を読むと「秘書のセリフは普通だけど、態度が父親に対する甘えを示している」とか「母親は秘書のことを愛人だと思っているが、それを表に出さずに牽制している」とかということがわかってくる。そういった水面下のドラマを、セリフや動きで表現しているのは富野作品の大きな特徴です。

──確かに、『機動戦士ガンダム』でも、シャアとララァが並んでテレビを見るシーンなんかは「直接的に描写はしないけど、この二人はデキている」というシグナルが散りばめられていましたね。もうひとつ、先ほど名前の出た『GQuuuuuuX』なんですが、藤津さんもご覧になっているかと思います。富野論の本が出たところであの内容のアニメが公開されるというのも、なかなかすごいタイミングですが……。

藤津:ほんとですよね。僕もびっくりですよ(笑)。『GQuuuuuuX』は面白かったです。というのも、『∀ガンダム』以降、初代『ガンダム』の呪いみたいなものがなくなって、もう少し自由というか、「ガンダムとは何か」ということをテーマにしなくても『ガンダム』が作れるという時代になったという印象が僕にはあるんです。ところが『GQuuuuuuX』では、もう一回最初の『機動戦士ガンダム』に立ち返って、「あそこで何が起こっていたのか」ということをメタ的な視点も交えてテーマにしていました。これは本当に、「大変なところに手を突っ込んだな……」という面白さがあります。

──そうですよね……。ただ、自分は最初に見た時はびっくりしすぎて、後半の内容がぜんぜん頭に入ってこなかったですが。

藤津:いや、僕も最初に見た時は前半のインパクトが強すぎて、後半の記憶が薄かったんですよ。前半を見て「あれはどういうことだろう……」と思っているうちに後半が始まるので。2回目を見た時はわざと後半に意識を合わせて見ていました。カラーとの共同制作ということも含め、ああいう大無茶といってもいい大胆な方法が通ったというのは、多分どこかのタイミングでサンライズの方針が大きく定まったからなんだと感じました。今回の『GQuuuuuuX』だけが特別なのではなくて、『ガンダム』というものを未来にわたって広げていくことを考えたとき、これがアリになったんだと思うんです。「攻めないと守れない」というか。

──ありそうな話ですね……。そして『GQuuuuuuX』でも、小説版『機動戦士ガンダム』がレファレンス元になっている気配がありましたが、文筆家、小説家としての富野監督についてはどうお考えでしょうか?

藤津:よく富野監督の小説は読みづらいって言われますけど、僕は発売当時、普通にソノラマ文庫版の『機動戦士ガンダム』を買って、そのまま「超面白いな」と思って読んだので、「読みづらい」というのがよくわからないんです(笑)。やっぱりひとつには、映像にならない、キャラクターのバックボーンの部分が説明されているのが面白いところだと思います。映像にする時には不要だということでバッサリ切り落としているけど、小説ならこういう部分もいるよね、という部分を意図的に書き足している感じがします。例えば、『機動戦士ガンダムF91』の小説では、元々ブッホ・コンツェルンというものがあって、ロナ家にはこういう歴史があって、というところから説明されてるんですが、これが面白いんです。他にも、『ガンダムF91』ではセシリーのお母さんのナディア・ロナが、現在はパン屋のシオ・フェアチャイルドと駆け落ちしているんですよね。2人は大学時代からの知り合いだったという設定ですが、シオは映画では卑小な人間として描かれている。ではなんでこんな人物とナディアがくっついて、セシリーを隠れて育てていたのかっていう話になった時に、「シオは昔文学青年で小説を書いていて、そこにナディアが憧れた」ということが小説には書いてあるんです。

──そんな設定が……。

藤津:それで生家であるロナ家から逃げるようにに、シオと出奔したという話になっているんですが、まず「文学青年だった」というアイデアを出していた。そう考えると、他の登場人物は理屈っぽいのに対して、ナディア・ロナはある種のロマンチシズムで動いたんだなという感じもしてきて、そのあたりの事情が立体的に見えてくるんです。しかも「そんな文学青年も、歳をとると卑小なオヤジになる」という、その展開の酷さも含めて面白い(笑)。作品世界の成り立ちを説明してくれるのはやっぱり興味深いですし、富野監督の頭の中にある世界をそのままダイレクトに味わえるのは小説だろうと思います。

──富野監督の小説は、キャラクターについての説明を「〇〇はこういう人間である」みたいな書き方でバッサリ切っちゃうところがあって、このあたりは普通の小説とは異なる点だと思います。

藤津:細かいエピソードやディテールの積み重ねで人の性格を書く、みたいなのが多分好みじゃないんですよね。アニメと同じで身の回りのことばっかり書いてもつまらないと思っているんだと思います。推測ですが、色々な人間がワサワサと動いている群像を端的に書いて、それをたくさん積み重ねていったある種の物量で何かを書こうとしているんじゃないでしょうか。

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