杉江松恋の新鋭作家ハンティング 自信をもってお薦めできる「このミス」大賞作『ファラオの密室』

「このミス」大賞『ファラオの密室』評

 エジプトだけどなあ、こんなおもしろいものを世に出さなきゃ駄目だろう。

 第22回「このミステリーがすごい!」大賞受賞作としてこのたび刊行される『ファラオの密室』(宝島社)は、白川尚史のデビュー作である。プロフィールを見ると1989年生まれで東京大学工学部卒、松尾研究室の出身とある。松尾豊教授の専門は人工知能技術だが、本作は工学とも、まして人工知能ともまったく関係がない。エジプトである。しかも紀元前14世紀のエジプトだ。ご存じのとおり古代エジプトには絶大な権力を持つファラオが君臨していた。気候に始まる森羅万象は太陽神の支配するところであり、ファラオはそれと同一視される存在として絶大な権力を有していたのである。あの巨大なピラミッドも、ファラオの神性を保つために築かれた。

 以上の記述から、なーんだ、あまり関心ないや、と思った人はちょっと待っていただきたい。物語の冒頭では二つの不思議なことが起きる。一つはそのファラオに関するものだ。先王アクエンアテンが亡くなり、そのミイラが王墓であるピラミッドに収められることになった。神官長メリラァが指揮して葬送の儀が行われたのだが、とんでもない事態が起きてしまう。なんと王墓の玄室に運び込まれていたはずのミイラが、棺の中から消えてしまったのである。遠く離れたアテンの大神殿で遺体は発見された。王墓の玄室はメリラァ自身の監視下にあった。つまり密室状況である。王墓に埋葬されることを嫌がって、王の魂が逃げ去ってしまったのか。題名にある『ファラオの密室』とはこのことを指している。第一の不思議だ。

 もう一つの不思議は半年前、王墓建設中に不慮の死を遂げた上級神官書記・セティに関するものだ。エジプトの民は亡くなると魂がナイル川を下り、冥界へと向かう。そこで真実を司る女神マアクの審判を受けるのである。マアクは死者の心臓を天秤にかける。罪深い者は死者の地であるイアルの野に足を踏み入れることができないのだ。ところがマアクの天秤は、セティの心臓を裁けなかった、審判不能、なぜならばその心臓には欠けがあったからである。死後に何者かが墓を暴き、心臓の一部を持ち去ったらしい。マアクから三日間の猶予をもらったセティは現世に戻り、心臓のかけらを盗んだ者を捜し始める。

 セティの墓所に出入りした者は限られており、それらの中に該当者がいなければ犯人候補はいなくなってしまう。これが第二の不思議で、蘇った死者であるセティ自身が自らの死の謎を解きながら、ファラオの密室変事によって引き起こされた異常事態にも巻き込まれていく、というのが本作のあらすじだ。

 古代エジプトに関する基本的な知識はなくても、作者はわかりやすくそれを説いてくれるので問題なく読み進めることができる。あらかじめ頭に入っているといいのは、先王アクエンアテンに関することである。第18王朝の王であったこの人は、宗教改革を行った。太陽神ラーを始めとする神々を否定し、唯一神アテンこそが真の神としたのである。アクエンアテンという名も「アテンに有益なる者」の意だ。そのために神官たちと対立し、神像を破壊したり、都を新しいアクトアテンに遷したりというような急進的政策を進めた。このことが社会に不安をもたらした、という史実が物語の背景には描かれている。私もこのくらいは世界史で習った知識としてぼんやりと覚えていた。覚えていなくても作者が書いてくれるので大丈夫なのだけど。

 世界史は高校で履修していません、古代エジプトにもまったく関心がありません、という読者も多いと思う。それでも試しに手に取ってもらいたい。これがするすると読めてしまうのである。語りの技術が巧みだからで、たとえば物語の起伏が変化に富んでいて楽しいということがある。第一章でセティにまつわる不思議が語られたあと、視点人物が代わってカリという奴隷の少女になる。カリは異民族の生まれなのだが、さらわれて奴隷として売られてきたのだ。王墓を築く石運びに従事させられ、鞭で打たれるなどひどい仕打ちを受ける。あまりにも惨いことが立て続けに起こるのだが、カリがどうなってしまうか知りたくて、やはりついページをめくってしまう。そして第三章でセティが語り手に復帰すると、今度は先王の遺体紛失によってエジプト全土が風雲急を告げる事態となり、すべての登場人物がその中に撒きこまれていくことになるのだ。

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