杉江松恋の新鋭作家ハンティング 注目の芥川賞候補作、市川沙央『ハンチバック』の衝撃
〈私〉の言葉は広範囲に届くものだ。健常性が無条件に押しつけられる事例の最たるものが妊娠と出産だろう。かつては優生保護法なるものがあり、健常性の純度を保つという大義名分の下に非人道的な予防措置が罷り通っていた。〈私〉のツイッターアカウントには、多くの下書きが存在する。書いた途端に炎上しそうな思い付きは、そこに置いて冷却期間を取るのである。
——[……]〈私の曲がった身体の中で胎児は上手く育たないだろう〉〈出産にも耐えられないだろう〉[……]〈でも妊娠と中絶までなら普通にできる。生殖機能に問題はないから〉〈だから妊娠と中絶はしてみたい〉〈普通の人間の女のように子どもを宿して中絶するのが私の夢です〉
リプロダクティヴ・ヘルス&ライツ、性と生殖に関する健康と権利についての思考が根底にある。身体に関することを自分で決める権利は性別や立場を問わない基本的人権の一部である。だがこの社会では、女性であるというだけであらかじめてしまうものがある。それを自身の手に取り戻さなければならないという声が発せられる。特に今その声が大きくなっているのは、小さな声では聞こえない、あるいは聞こうとしない人々がいるからである。
『ハンチバック』は、そうした大きな潮流の中に位置づけられるべき小説だ。さらに、それが障害者女性の視点から行われるということに大きな意味がある。先に挙げた読書のマチズモのように、そこからではないと見えないものがあるからだ。社会の中に深く切り込んでいく穂先を持った小説である。
同時に本作は、社会に参画するための選択肢があらかじめ奪われてしまった女性の、身を切るような極私の物語でもある。私の居場所は社会の中に準備されていない。そのことを冷徹に観察し、いかに社会の中に自分という存在を位置づけていくかというのが〈私〉の切迫した課題だ。冒頭のコタツ記事はその一つなのである。そう理解すると、書きなぐったような文章も違った印象で見えてくる。
巻末のプロフィールによれば、作者の市川沙央は筋疾患先天性ミオパチーによる症候性側弯症および人口呼吸器使用・電動車椅子当事者であるという。作中の〈私〉こと井沢釈華と同じ境遇だ。本作がデビュー作である。井沢釈華という主人公を通じて市川は世界とつながった。〈私〉という存在がどう見えるか、と読者に問う。題名の『ハンチバック』とは「せむし」の謂いである。ひとたび目に入った〈私〉をまた視界から外すのか。それとも。