千葉雅也×荘子itが語る、芸術的な人生の作り方 「異端的でありながら明るく生きる」

千葉雅也×荘子it 対談
千葉雅也『現代思想入門』(講談社現代新書)

 哲学者の千葉雅也が、デリダ、ドゥルーズ、フーコーといった現代思想の代表的な哲学者の思考術をわかりやすく解説した新書『現代思想入門』(講談社現代新書)がヒット中だ。「人生が変わる哲学。」をキャッチコピーとした同書は、現代思想を扱いながらも実生活に即した考え方のヒントを与えてくれるものとなっている。また、作家としても活動する千葉の、創作に対する姿勢が垣間見れるのも読みどころの一つだろう。

 リアルサウンド ブックでは、かねてより千葉の著作の読者であり、Hip HopクルーDos Monosのトラックメイカー/ラッパーとして活動する荘子itを迎えて対談を行った。現代思想とヒップホップが交差する、知的かつユニークな対談となった。(編集部)

「Shit」的な状態をそのまま肯定的なものに

千葉:荘子itさんは2019年、僕が「新潮」に小説『デッドライン』を発表したときにTwitterでコメントしてくれましたね。お名前が特徴的だったこともあって、印象に残っています。読み方は「ソウシイット」ではなく「ソウシット」なんですよね?

荘子it:覚えていらっしゃったんですね、嬉しいです。はい、リエゾンして「ソウシット」です。「荘子」は研究者の方は「ソウジ」と読むケースが多いのですが、僕は素人なので「ソウシ」読みです(笑)。

千葉:本のタイトルを指す場合は「ソウジ」で、人物を指す場合は「ソウシ」なんですよね。僕も哲学者の中島隆博先生に教えてもらいました。

荘子it:専門的な界隈では、読み方が場合によって変わることを知って、Twitterのユーザー名を「Zo Zhit」に変更しました。ラッパーはよく名前の「S」を「$」マークに変えたり、数字の「5」に変えたりといったスラング的な言葉遊びをするんですけれど、そういうノリで「ソウジ」とも「ソウシ」とも読むことができるようにしたんです。本名が庄子だったことに加えて、自由で反常識的な、逍遥遊を尊ぶ荘子の思想が昔から好きだったのも由来です。

千葉:荘子は僕にとっても大きな存在です。中島先生はかつて、荘子とドゥルーズを対比するという考察をされていて、僕がその後、ドゥルーズ読解を練り上げる上でも影響を受けました。中島先生の荘子論は6月9日に『荘子の哲学』(講談社学術文庫)というタイトルで文庫化されまして、僕が帯文を書きました。僕にとってドゥルーズを深く読んでいくということは、荘子を経由することと深く結びついているんです。

荘子it:『デッドライン』にも、中島先生がモデルとなったであろう教授が出てきますね。僕自身が荘子itと名乗り始めた時点では、まだ中島先生の著作は読んでいなくて、荘子に「it」を足して「Shit(クソ)」にしちゃうという単純な発想だったんですけれど、ラッパーの言う「Shit」には「New Shit=新曲」みたいなポジティブな意味合いもあるから、まさに荘子的な「変化の哲学」だなと後から思いました(笑)。

千葉:「Shit」的な状態をそのまま肯定的なものに変換する、と。すごく良いネーミングだと思います。

「ビビり」と「姑的な権威」

千葉雅也『オーバーヒート』(新潮社)

荘子it:今日は千葉さんとお話ししたいことがいくつかあります。まず一つは、「ビビる」ということについて。千葉さんの小説『オーバーヒート』では、冒頭のシーンで主人公と恋人が壁のタイルを見つめています。その時、恋人の方は真っ直ぐに壁を見つめているんだけれど、主人公の方は恋人の視線を追うようにして見ていて、二人の視線はちょうど直角三角形の垂直の辺と長い辺のような感じになっている。こういう二人の非対称性は物語の随所で描かれていて、主人公の方が常に一歩たじろいでいる印象を受けます。こういうビビりがちな主人公を描くのは、千葉さんご自身の思想とも関係するところがあるのかなと感じました。

 『現代思想入門』では、フーコーが「権力」をどのように分析したのかが書かれています。「権力」というのは、単に二項対立で強い王のような権力者と弱い人民がいるだけではなく、17-18世紀に起きた近代における変化以降は、「支配されることを積極的に望む被支配者」が権力者を支える相互依存的な構造になっている、と。こうした近現代社会においては、人々が自ら望んで悪いことをしないようにする「規律訓練」と、人口密度や出生率などをコントロールしようとする「生政治」の両輪によって(安心安全を求める人々の支持もあって)権力が維持されている。

 しかし、それに付け加えて、フーコーは、個人のアイデンティティなるものが成立する以前の古代においては、なにが「やってはいけないこと」だったのかは絶対的なものではなく、その都度に注意されるような有限的なもので、人々は「自己への配慮」によって適宜ゆるい自己管理をしていたと指摘します。

 千葉さんは、フーコーが注目した古代人の「自己への配慮」の「世俗性」をポジティブに捉えた読解をし、個人のアイデンティティや内面にあまりこだわりすぎず(罪の意識に囚われず)に自分自身に対してマテリアルに関わることーー毎日寝る前に「今日はあれがよくなかったから明日からちゃんとしよう」と自己本位で考えることーーこそが、変に深く反省的な主体を作る「規律訓練」や大規模で画一的な「生政治」へのラディカルな抵抗になりうると述べています。

 そこで僕が連想したのは、千葉さんが映画評論家の蓮實重彦を「姑的な権威」と評していたことです。一部の映画作家には「こんなカットを撮ったら、(他はいざ知らず)蓮實重彦には見過ごされない」とビビる意識があると思うのですが、それはキリスト教的な絶対的な罪の意識とは違っていて、あくまで「もっと良いカットがある」といった相対的かつ実践的なレベルでの意識を作家本人に強いるもので、「自己への配慮」にも通じるものがあると思います。『オーバーヒート』の主人公が、若い恋人にたじろぎながらも、彼に愛想をつかれないようにするにはどう振る舞えばいいのかを考える様もまた、権力に動かされたり罪の意識に囚われるのではないやり方で、自分なりに生き方の指針を探していると言える。つまり、ビビりがちな態度の中に「自己への配慮」が見出せるのではないかと。『現代思想入門』の記述をはみ出すかもしれませんが、「自己への配慮」は、ある種の倫理観のようなもので、完全に自己完結的なものではなく、何か外的な要因のある、しかし絶対的な「権力」や抽象的な「罪」のようなものではない、あくまで相対的かつ具体的な他人との関係において現れるものではないかと思うんです。さらに言えば、そういう他人(恋人や自分にとってのカリスマ)は、「権力」とは異なるオルタナティブな「権威」だという風に考えられるのではないでしょうか。そして、それが「権威主義」や「メンヘラ」に頽落しない限りにおいて、とても素晴らしいことじゃないかと思うんです。

千葉:僕の作品やツイートを深いところで繋いで捉えていただいているんですね。荘子itさんのような読み手がいることが僕にとっては至上の喜びで、本当にありがたいことです。荘子itさんがおっしゃるように、主人公のビビりと、蓮實重彦の「姑的な権威」には繋げて考えられる部分があると思います。

 まず、『オーバーヒート』の主人公には、僕自身のジェンダートラブルと関わっている面があり、いわばポジションが女性的なんです。女性的ということの意味を規定するのは問題だという人もいるかもしれないけれど、少なくとも僕の個人的経緯としては、直線的で馬鹿なことができてしまう男性性と、防衛的で安全性を問題にする傾向がある女性性という対比があり、二つが複雑に絡み合っています。『オーバーヒート』の主人公は男性ですが、典型的な男性性を獲得できていなくて、その由来は母親との関係性にあるようだということが示唆されている。実は、母的なものをめぐる想像力が本作のテーマのひとつですが、それを指摘してくれたのは現代美術作家の柴田英里さんくらいでしたね。

 蓮實重彦に関しては、僕は蓮實さん自身のジェンダートラブルがどういうものかは知らないけれど、やたらと細部を指摘して、そこから大きな秩序をひっくり返していくというやり方は、ある種女性的な戦略だと思うんです。男性的秩序に対して、こんなところにカッコ悪く足が出てるじゃないですか、と指摘するんですね。

 うちの母親は意地悪なことをいう人ではなく、子供の安全を細かく心配してくれるタイプでした。加えて、父親も物事を強く決断するタイプではなくて、工夫と配慮と根回しでビジネスを行う人でした。父も、強く父権的ではなかった。だから両親がともに母権的な感じで、僕はその環境で、敏感で細かいことを気にするタイプになった。うちの家族は部屋を細かくアレンジしたりするのが好きなんです。僕はそういう細かいことに喜びがあるのだけど、細かいことに縛られているという悩みもあって、まったく逆に、粗暴な男に対する憧れもある。だから僕の小説ではそういう男性性が魅力的に描かれたりするわけですけれど、同時に母的な権力を描いている。こういう母的なものをめぐるコンプレクスが、言ってみれば、蓮實重彦的なものにつながるかもしれないというわけです。僕の権力論は、基本的に、いわゆる嫁姑問題なんです。

荘子it:なるほど、すごく面白いです。先日、noteで書いていた「非常時の歯医者」も面白かったです。コロナ禍で歯医者に行くのは色んな角度から突っ込まれそうだけれど、絶妙にポリコレ的な突っ込みができないように書いていて、こういう冗談みたいなことをマジでやるところも蓮實重彦的に感じました。

千葉:ポリコレ的な意識に対する感度については、ちょっとほかにはないくらいの自信がありますね(笑)。なので、そういう捻くれたことを色々とやっているわけです。

荘子it:その捻りはまさに『勉強の哲学』で仰っていたことですね。あえて常識はずれなことをいって「お前らが信じている常識なんてクソ」ということもできるけれど、常識のルールからしても批判できないような絶妙なポイントをさっと示して成立させてしまう。「ノリ」から外れることもできるし、「ノリ」に戻ってくることもできる。僕はクリエイターとしてなにかを表現するときに、境界の部分を突きたいという思いがあるから、千葉さんのそういう方法論をとても尊敬しています。

関連記事

インタビュー

もっとみる

Pick Up!

「インタビュー」の最新記事

もっとみる

blueprint book store

もっとみる