千葉雅也×宮台真司が語る、性愛と偶然性 「そこで経験する否定性を織り込んで生きていく」

千葉雅也×宮台真司が語る、性愛と偶然性

 哲学者・千葉雅也の第二小説集『オーバーヒート』(新潮社)が発売されたことを記念して、社会学者・宮台真司とのトークイベント「個として生きる勇気」が、10月1日に代官山 蔦屋書店にて開催された。公の場でふたりが話し合うのは、今回が初めて。

 千葉雅也は、宮台真司の映画批評集『崩壊を加速させよ 「社会」が沈んで「世界」が浮上する』(blueprint)の刊行の際にコラムを寄稿。その縁で、今回のトークイベントが実現した。(参考:千葉雅也が選ぶ「宮台真司の3冊」 強く生きる弱者ーー宮台社会学について

 リアルサウンド ブックでは、多くの反響を呼んだ同トークイベントを記事化。千葉雅也は小説を通じて何を表現しようとしたのか、また宮台真司はそれをどう読み解いたのかを軸に、性愛、東京と地方、90年代カルチャー、加速主義など、さまざまな事柄について語り合う貴重な対談となった。(編集部)

男同士の肉体関係は純粋にスポーツ

左、宮台真司。右、千葉雅也。

宮台:『デッドライン』と『オーバーヒート』という二つの小説を読んで感じた印象は、音楽的だな、ということです。二つの作品は、ハッテン場などゲイ界隈での肉体的な絡み合いやぶつかり合いというリズムセクションの上で、大学での仕事など本当はどうとでもあり得る無意味な戯れのような日常が、まるでメロディーのように鳴っている。多くの人々にとっての日常生活を、ゲームをしているような感覚で過ごしているというか。この感覚を小説で描いているのがとても新鮮で、僕がまだ数理社会学者だった85年頃、ナンパ師としてハードに活動していたときの心境を思い出しました。

千葉雅也『オーバーヒート』(新潮社)

千葉:僕の小説を音楽的だと評してくださるのはすごく嬉しいです。実はもともと小説を書きたいと思っていたわけではなく、どちらかという詩の方に興味がありました。人間関係の問題とかではなく、日常の意味作用からずれたところで言葉が結びついていくような、ある種の幾何学的な抽象度の世界が好きだったんです。でも段々、おそらく人間のドラマに音楽性や幾何学性を見出すようになってきて、詩を特権化して世俗的な小説とわけるという感覚が崩れていった。そうなったときに一体なにが小説のテーマになるかというと、我々の日常である意味の世界と、物質と物質がぶつかり合って一つの星座を描くようなセックスの世界を対比的に描くことなのかなと。小説というジャンルに対する距離感が、ああいう性生活を描くことに繋がった気がします。

宮台:日本で詩というと、少女が書く抒情詩のたぐいを思い浮かべがちだけど、千葉さんがおっしゃる幾何学的な捉え方は叙事詩に固有なもので、摂理に関わります。わかりやすくいうと、日常の感覚との対比で抽象的な構造ーー神話的構造とも呼ばれますーーを描き出すわけですね。それを表現できるのであれば小説でも散文でも構わないのだと。身過ぎ世過ぎの日常を描いているようで、そこに浮かび上がる抽象的な星座ーーヴァルター・ベンヤミンの言う「アレゴリー=世界はそもそもそうなっている」ーーを感得させようとしておられる。

千葉:まさにその通りです。

宮台:90年代まではノンケの界隈にもハッテン場の施設が東京にありました。僕が通っていた新宿の店では20くらいの個室ブースがあって、男も女もカップルも待機できました。掲示板に自分のポラを張って自己紹介を書き込めました。「この3番の女が良いな」とか「このカップルが良いかな」と選んで、個室をノックして入り、後はなんでもアリでした。

 でも、『オーバーヒート』を読むと、やっぱりゲイの界隈は良いなと思いました。というのも、ノンケのハッテン場はもっとノイジーというか、いろんなことが面倒なんです。対面して、まず言い訳から入ったりする。ゲイのハッテン場はもっと手順が自動化されていて、迷いなく突き進める感じがしました。それが没入度を高めるんでしょうね。

千葉:決定的に違うのは、やっぱり男女関係だと性行為を行うときに、擬似であっても瞬間であっても恋愛的な仕立てが生じますよね。男同士だとそれが全くいらなくて、純粋にスポーツなんです。あるのは流動的なただの肉体関係で、ハッテン場という呼称に反して、誰も発展可能性を求めて行かないわけです。もしも瞬間的であれ恋愛的なことが起こり続けていたとしたら、おそらく人にとってなにか大事なものを毀損しているようなやましさがあるかもしれないけれど、ゲイのハッテン場はおそらくそういうのが出てこないんです。

宮台:すごく面白いです。80年代後半のノンケのナンパの時空では多くの場合、疑似恋愛や瞬間恋愛があって、「この人とずっと付き合い続けたらどうなるのかな」という想像とともに行きずりを楽しみました。そこが醍醐味でもあったんだけど、90年代に入ると疑似恋愛モードが失われ、単にお互いの寂しさを紛らわすためにただやっている感じの寂しい時空になります。だから、この小説に描かれているようなエロス的な没入が滅多になくなった。ゲイ界隈にはそうしたロマッチックな発展可能性とは、全く違う充実があるんだなあと思いました。そこがこの小説を読んで、僕の体験と引き比べて強く印象づけられたところです。

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