注目集まる韓国文学の可能性とは? 翻訳家・古川綾子に聞く、作品から見える韓国のトレンドとリアル
今月12月3日、韓国大統領である尹錫悦が緊急のテレビ演説の中で「非常戒厳」を宣言し、世界中を震撼させた。1987年の民主化後、初めてとなる「戒厳令」は、世界的にも大きな衝撃を与えた。
またそれより2ヶ月遡った今年10月には、韓国人作家であるハン・ガンがノーベル文学賞を受賞。アジア人にとって初受賞となることもあり、日本の大型書店でもハン・ガンの著書が平積みされているのを多く見かける。
政治的にも文学的にも大きな局面を迎えている韓国において、文学はどう捉えられているのか。現在のトレンドや作品から見える韓国のリアルについて、神田外語大学講師を務め、数々の韓国文学の翻訳を手掛けてきた、古川綾子氏に解説してもらった。
「自由が抑圧される日々が続いた国」での文学
ーー現在の韓国文学の特徴やジャンルのトレンドについて教えてください。
古川:社会的な出来事や問題をテーマに据え、その上に市井の人々、つまり個人の物語を積み上げていく文学作品が多いように思います。最近は雇用問題や不動産バブル、経済格差、老後の不安など、身近な内容を取り上げた作品が目を引きます。
その一方で、日々の暮らしがこんなに大変なのだから、せめて本を読んでいる時くらいは癒されたいと考える人も多いようです。ヒーリング小説やSF、ファンタジーのように、しばし日常を忘れたり、ほっと一息つけたりできるような作品も人気を集めています。
ーー社会的不安や葛藤が反映された作品が増加傾向にあると感じていますが、どのような背景があるのでしょうか?
古川:近現代の朝鮮半島は植民地支配、南北分断、朝鮮戦争、軍事独裁政権と激動の歴史を歩んできました。1910年の日韓併合から1987年の民主化宣言まで、実に80年近くにわたって自由が抑圧される日々が続いたわけです。もちろん言論や出版の自由も統制されていましたが、だからこそ「文学は社会の正しさを問う存在である」という使命感にも似た意識が形成されていき、社会問題や体制批判を扱う作品が生み出されてきました。
社会的不安や葛藤が反映された作品が増加傾向にあるというより、そうした激動の歴史を歩みながら培われていったことが、現在でも継承されているのだと思います。
「暴力による過去の悲惨な傷や犠牲を忘れてはならない」
ーー韓国文学が国際社会で果たす役割とはなんでしょうか。
古川:ハン・ガンさんが今年のノーベル文学賞に選ばれましたが、選考理由に「過去のトラウマと向き合う」という言葉がありました。彼女の連作小説『少年が来る』は、民主化を訴える学生や市民が軍によって無惨に殺された光州事件を取り上げています。大きな事件や事故が起こると、日時や数字といった概要が歴史の記録として残りがちですが、『少年が来る』は光州事件に直面した市井の人々の癒えない痛みを描くことで、彼らを追悼すると同時に、彼らの記憶や生きた証も記録する作品になっています。
また「文学を読み、書くという営みは、同じく必然的に、生を破壊するすべての行為に真っ向から対立すること」ともハン・ガンさんは語っています。世界各地で今も続く紛争や戦争を前に、暴力による過去の悲惨な傷や犠牲を忘れてはならないという普遍的なメッセージを伝えていくことは、大切な役割の一つだと思います。
ーーハン・ガンのように韓国文学が世界で注目を集めていますが、グローバル化する韓国文学の可能性と課題があれば教えてください。
古川:韓国政府はK-POPや映画をはじめとする自国の文化産業に大規模な支援政策を続けてきました。海外展開に伴う市場の拡大や国家イメージの向上など、韓流がさまざまな分野に与えた影響力は計り知れません。他の文化産業と同様に、韓国文学にもいくつかの支援制度があります。翻訳版の刊行が決まり、所定の手続きと審査をクリアすると、海外の出版社や翻訳者に対して支援金が支払われるシステムになっています。
こうした輸出支援には単なるコンテンツ産業に留まらない、例えば海外文学の刊行が容易ではない、少数言語の話者にも韓国文学を届けるというような意義もあると思います。その一方で、朴槿恵政権が反政府的な文化人や芸術家の「文化界ブラックリスト」を密かに作成し、彼らの文化・芸術活動を支援しないように圧力をかけていたことが、当時は大きな問題になりました。実際に著作物が検閲対象となったり、賞を受賞することが厳しくなったり、支援が受けられなくなったりという不利益を被った人たちの事例が確認されています。「政権が変わっても干渉はしない」という一貫した支援策の継続が望まれます。
古川 綾子(ふるかわあやこ)
神田外語大学韓国語学科卒業。延世大学教育大学院韓国語教育科修了。翻訳家。神田外語大学講師。NHKラジオ「ステップアップハングル講座『K文学の散歩道』」講師を務める。主な訳書にハン・ガン『そっと 静かに』(クオン)、キム・エラン『走れ、オヤジ殿』(晶文社)、チェ・ウニョン『明るい夜』(亜紀書房)、チョ・ナムジュ『ソヨンドン物語』(筑摩書房)、イム・ソルア『最善の人生』(光文社)、チョン・ハナ『親密な異邦人』(講談社)など。