「新しい日常、新しい画面」第4回
大林宣彦、岩井俊二、新海誠、『WAVES/ウェイブス』ーー“明るい画面”の映画史を辿る
宮崎駿が注目していた画面の変化
2013年、この年に現時点での最後の長編監督作となっている『風立ちぬ』を発表した宮崎駿は、かねてから敬愛し、つい先ごろ亡くなった昭和史家の半藤一利と対談を行っている。NHKの番組でも放送され、『腰抜け愛国談義』という文庫にもまとめられたこの対話のなかで、宮崎は、近年の「画面」に起こっているある変化について語っている。冒頭から長い引用で恐縮だが、該当部分を抜き出してみよう。
宮崎:ウォルト・ディズニーでも、いまはみんなコンピュータでやる3Dのほうに移っています。[…]
自分たちは長らく、鉛筆やペンで描いたものを、透明のセルに写して筆を使って絵具を塗ってという、ものすごくアナログな作業をしてきました。それがある日デジタルになったんです。色を塗らなくなりました。コンピュータで色をつける。[…]
半藤 そうすると、いまはあんまりお描きになることはないんですか。
宮崎 いえ、描いています。背景は、ぼくらは筆で描く。その背景をコンピュータに取り込んで、その上に乗っかる人物は、その背景を基準にしながら色を決めていくという作業をします。だけど、色を塗ってOKというわけではなくて、絵具で塗ってから、少し調子を上げようとか下げようとかいろいろやるんですね。ですからどんどんコンピュータの精度が高くなって、なんだかよくわからないのですが、ちかごろ画面が妙に明るくなってきたんです。
もう四十年ちかく前に『アルプスの少女ハイジ』というテレビアニメをつくったのですが、画面の背景はほとんど緑色ですから、それをバックに赤い服を着たハイジがチラチラ走っていると、かつてはしっくりと調和して、元気がいい、という印象でした。で、デジタル化に当たってその色を機械に取り込んでみたら、赤そのものが強烈な蛍光色になってしまうんです。もとの色味がすっ飛んで輝いてしまっている。これはちょっとしたショックでした。
ぼくは、機械が乱暴になっているのじゃないかと思うんです。それを見慣れている人間たちは、それをそのまま受け入れますから、近ごろでは渋い画面がなかなかつくれません。色調が激しくなってしまうんです。
半藤 いまの日本人は蛍光色が好きなんですかねえ。
宮崎 だと思います。それは本屋さんに行ってみるとわかる。もう、そこらじゅう蛍光ピンクだらけです。なでしこのピンクじゃなくて、コンピュータがつくっている激しい赤ですね。ぼくなんかは、それが気持ち悪いんですよね。(半藤一利・宮崎駿『半藤一利と宮崎駿の腰抜け愛国談義』文春ジブリ文庫、82~84頁)
ここで宮崎は、アニメーションの制作現場にも広く浸透してきたデジタル工程について触れているが、そこで手描きの背景画をコンピュータに取り込んでカラー調整をすると、「どんどんコンピュータの精度が高くなって、なんだかよくわからないのですが、ちかごろ画面が妙に明るくなってきた」と打ち明けている。そして、「それを見慣れている人間たちは、それをそのまま受け入れますから」、いまの街中の風景も「もう、そこらじゅう蛍光ピンクだらけ」になってきたと指摘している。この国民的なアニメ作家の漏らしたささやかな感慨は、おそらくコロナ禍前後の映画文化の「画面」の変化について考えているこの連載にとって、きわめて見逃せない問題を提起していると思われる。
新海誠と京アニの「インスタ映え」的画面
まず、宮崎自身もその創作の領域とするアニメーションの分野から考えていこう。
現代のアニメーションの世界で、宮崎が述べている「コンピュータの精度が高く」なることによって、「強烈な蛍光色」を発する「明るい画面」というと、誰でもすぐに頭に思い浮かぶのが、やはり2010年代の日本アニメを代表する存在となった新海誠と京都アニメーションの作品の作る画面だろうと思う。
2016年にそれぞれ『君の名は。』と『映画 聲の形』という話題作を揃って手掛けた両者は、アニメーション研究の土居伸彰がすでに指摘したように(『21世紀のアニメーションがわかる本』)、21世紀の新しいアニメーション表現を象徴する存在と評価することができる。すでにしばしば評されるように、新海のアニメーションも、また、批評家の石岡良治の表現(『現代アニメ「超」講義』、107頁参照)を借りればその演出を「コモディティ化」したという京アニのアニメーションも、まさにデジタル技術の浸透が可能としたヴィジュアルエフェクツソフトを用いてデスクトップ上で行われるさまざまな合成処理、いわゆる「コンポジット」(しばしばかつての「撮影」工程と類比される)を活かしたフォトリアルな映像表現を共通の特徴としている。その結果、まさに「明るい画面」への変化を宮崎が指摘した2013年に公開された『言の葉の庭』の画面が典型的なように、新海アニメの画面は、レンズフレアや逆光、広角レンズ、ピントボケなどの実写的なエフェクトと相俟って、情報量が飽和した高精細なイメージがフレームの端までキラキラと光輝くものになっている。このことは、この連載の第2回(参照:プロセスの映画と連続/断絶の問題を考える 『本気のしるし 劇場版』の“暗い画面”が示唆すること)でもすでに指摘していた。
こうした新海や京アニのような現代アニメーションの「明るい画面」は、やはり2010年代以降のデジタル映像文化を象徴するあるひとつの「画面」をごく自然と髣髴させる。そう、写真共有サービス「Instagram」の「インスタ映え」の写真である。たとえば、第1回でも名前を挙げた写真家の大山顕も、『君の名は。』を劇場で観たときの印象をこう記している。
このアニメーション[註:『君の名は。』]を観てぼくが衝撃を受けたのは、その絵づくりが完全に「インスタグラム風」だった点だ。しばしば逆光によってレンズ内で光が反射してできるフレアが描かれ、クライマックスシーンではCCDイメージセンサーが強い光を受けたときに発生するスミアまでもが描写されていた。言うまでもなく、これはわざわざ描かれたものである。[…]
『君の名は。』のこの描写は、[…]単に「見た目キラキラしてそれっぽい」のを目指しただけだろう。インスタグラムを筆頭とする、ネット上にある「いいね」をたくさん獲得する絵を詰め込んだ印象だ。場面のひとつには、なんとタイムラプスを描写したものまであった。アニメーションでタイムラプスとは倒錯している。よく考えるととても奇妙だが、多くの人はあれを素敵な演出だと感じたことだろう。(『新写真論――スマホと顔』ゲンロン、85~86頁)
確かに、新海アニメのフォトリアルな「明るい画面」は、現代の若い世代の映像文化を象徴する「インスタ映え」の画面を巧妙に擬態しているといえる。そして、だからこそ、その「明るい画面」のイメージ自体が、宮崎のいうように、ひるがえって「そこらじゅう蛍光ピンクだらけ」(まさにインスタ的イメージ!)の現代の「それを見慣れている人間たち」の感性をもまざまざと映し出しているのだ。
しかも重要なのは、インスタとの類似もそうだが、そうしたアニメーション表現が単にアニメーションに留まらない、デジタル映像の特徴と深く結びついている点だ。
たとえば、かたや近現代視覚芸術の研究者である荒川徹は、新海的な画面を「HDR的」だと形容している(「多挙動風景――動く絵画-写真としての新海誠」、『ユリイカ』2016年9月号、青土社所収)。「HDR」(ハイ・ダイナミック・レンジ)とは、アナログフィルムなどの一般的な記録画像と比較してより幅の広いダイナミックレンジ(明暗のグラデーション)のことであり、写真技法としては一般的に、露出の異なる複数枚の写真をコンピュータ上で合成したり、より近年ではスマートフォンの写真撮影機能にも搭載されているものである。
すなわち、この現代の「明るい画面」の問題は、アニメーションの領域のみならず――もちろん、後述するように、その「明るさ」はアニメーションというジャンルにも深く関わるものなのだが――、Instagram写真を含めた実写などデジタル化以降の映像文化全般に拡張して当てはめられる傾向なのである。