『Flow』空と海と大地を駆け抜ける猫たち “人類”不可視の映像体験が病みつきになる

『Flow』の映像体験が病みつきになる

 映画『Flow』では、一切のセリフを廃した作劇と、徹底したローアングル中心の視点によって「人類」の痕跡がほぼ消え去っている。

 しかし劇場でこの作品を観た私たちは、作中に登場するあの猫たちに対して「人格」のようなものを思わず見出してしまうだろう。それはなぜなのか。

『Flow』の“擬人化”演出は一筋縄ではいかない

 冒頭、主人公の猫はジャングルの中で犬たちに追いかけられている。大(中)型哺乳類に追いかけられる小型哺乳類——弱肉強食の世界観が端的に示される。

 しかしこの両者の関係(追跡者/逃亡者、あるいは捕食者/被捕食者の関係)はあっという間に意味を成さなくなる。洪水である。

 突如発生した謎の洪水によりジャングルは浸水する。猫だろうが犬だろうが虎だろうが、陸上動物たちは大海原を前にして「等しく」無力な存在と化す。むしろ猫と犬はともに船に乗り込み、協力してこの大洪水の中を生き延びようとする。

 猫たちに「人格」のようなものが芽生えはじめるのはこの辺りからだ。大災害を前にして、「協力」して船旅を続ける動物たちが不意にみせる「利他心」から、「人類らしさ」のようなものが感じ取られてしまうだろう。

 加えて言うと、猫たちが大自然を前にして「テクノロジー(=船)を用いなければ生きられなくなった」状況自体が、人類に似ている。

 ここで、ある動物が生存のために「テクノロジーに依存するか、そうでないか」という問いが立ち現れるだろう。たしかにテクノロジーに依存しなければ自然から身を守れなくなった陸上動物たちは「人類っぽい」。そして鳥や魚(飛べるか泳げる)は、猫たちにとってむしろ「脅威としての自然」となって現れる。

 たとえばヘビクイワシは猫を捕食しようとする。あるいは巨大な鯨(のような巨大魚)は意思疎通不可能な「自然そのもの」として、浸水したジャングルの中を悠々と泳いでいる。弱肉強食の世界=自然の中にいたはずの猫たちはいつのまにか「人類」らしくなっており、逆に彼らにとっての自然=脅威の存在が浮き彫りになる。

 ただしこの関係もすぐに変動する。

 あるヘビクイワシは慈悲を抱いたのか、同族に捕食されそうだった猫のことを身を挺してかばう。やがてこのワシは同族に羽を折られ、猫一行とともに船旅を余儀なくされる。猫たちにとって「自然の脅威」であったはずの鳥が、「利他心」を発揮した直後にはむしろ「テクノロジーに依存」する「人類っぽい動物」として描かれはじめるのだ。

 このヘビクイワシは、テクノロジーへの依存度=人類らしさの条件が簡単に変動することを示しているようだ。そしてテクノロジーへの依存度が環境によって変動するならば、「人類らしい生き物」の定義もまた、めまぐるしく変わっていくだろう。「自然そのもの」としてジャングルを悠々と泳いでいたあの鯨の最期が、そのことをよく物語っている。

 ある瞬間、ジャングルを満たしていた洪水は突然干上がる。猫は戸惑いを感じながらも、「元の世界」を歩き回る。

 やがて座礁している鯨を目の当たりにする。

 猫たちにとって脅威であった「洪水」はあっという間に消え去り、代わりに猫たちにとっての「平穏」と鯨にとっての「脅威」としてのジャングルがいつの間にか復活する。冒頭に登場した何気ない「水たまり」のショットが終盤で繰り返されるとき、それは誰かにとっての「脅威」を含意するだろう。

 こうして「人類」らしく見えていた動物たち(猫たち)と「自然の脅威」としてふるまっていた生き物(鯨)の立場はあっけなく逆転する。猫と鳥、テクノロジーと自然、陸上と水中、捕食者と獲物、安全と脅威——あらゆる関係を条件づける環境は、大いなる存在の気まぐれによって簡単に変動する。この世界は偶然性に満ちている。

 「人類らしさ」を決定づける条件も、環境次第で簡単に「流されて」しまうだろう。私たちが自明視している人類の同一性が脅かされるような映像体験を、この作品は提供しているようだ。

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