大林宣彦、岩井俊二、新海誠、『WAVES/ウェイブス』ーー“明るい画面”の映画史を辿る

大林宣彦、岩井俊二、新海誠、『WAVES/ウェイブス』ーー“明るい画面”の映画史を辿る

テレビ批判としての「暗い画面」の映画史

 大林宣彦=角川映画以降の、ここ40年近くにわたる現代日本映画史の「明るい画面」の系譜が、おおまかに見えてきたのではないだろうか。それでは、こうした系譜を、従来の日本映画史の見取り図のなかに、どのように位置づければよいのだろうか。

 これもすでに別稿の大林論で簡単に論じたように、そのためには、映画批評家の赤坂太輔の近年の議論がきわめて参考になる。というのも、赤坂は、まさに大林の「明るい画面」がそのルーツとする「テレビ的」な画面と対比される、いわば「暗い画面」の現代映画史を描き出しているからだ。

 赤坂は、海外を含む現代映画史の姿を、一種の「メディア批判」の格闘の歴史として綴っている。彼が「優れた「現代映画」」と呼んで評価する数々の作品群がそこで批判的に対峙しているとされるメディアとは、より具体的にいえば、まさに大林から新海までが影響を受けた映画以降の映像メディア――すなわち、テレビとデジタルデバイスである。赤坂は、メディア=テレビと「優れた「現代映画」」とを、つぎのように対比してみせる。

メディアは観客をフレーム内に閉じ込め、優れた「現代映画」は観客をフレーム外に解放する。例えばテレビは音源を特定できない音声を排除し、フレーム外空間を消去する。[…]メディアは目前の映像に書かれ聞かれる文字情報へと目と耳を誘導し、フレームやアングルはそれらに奉仕するために定められ、距離や時間それ自体は忘れ去られる。[…]今日のデジタルカメラの軽量化は、現在のメディア映像の作り手に全てを可視化・現前化できると思い込ませる。移動やパンが容易でリモートコントロールのクレーンやドローンなどを多くのカメラが使えるなら、目前の画面の脇にある空間は視聴者の意識に上らなくなり、視聴者は操作されたフレーム内に安心して視線を集中することができる。(『フレームの外へ――現代映画のメディア批判』森話社、13~14頁)

 赤坂によれば、映画以降のテレビやデジカメやドローンの送り出す映像たちは、「フレーム外空間を消去」して「観客をフレーム内に閉じ込め」、「全てを可視化・現前化できると思い込ませる」ものとしてある。つまり、すべてをわかりやすく一元化された「明るみ」のもとに曝けだしてしまうのが、今日のテレビ的画面というわけだ(今日のニュースやテレビバラエティの演出で日常化しているテロップの挿入を思い浮かべてもらえればよいだろう)。いわゆる撮影所システムの衰退と入れ替わるようにして台頭してきたテレビ的な映像文化の大勢は、こうした「フレーム外空間」=「不可視の暗さ」を漂白し、わかりやすいフラットな「明るさ」のもとに観客/視聴者を閉じ込める画面になっていると、赤坂は要約する。

 そして返す刀で、赤坂は、戦後から現代にいたる日本の優れた映画作家(シネアスト)たちは、こうしたテレビの台頭とともに撮影所システムの凋落を同時代的に体験しながら、対照的に、みないちようにそうしたテレビ的な「明るい画面」に果敢に「抵抗」し続けたのだと論じる。

このように全盛時の撮影所で活躍し一九七〇年代を迎えたさまざまなジャンルの日本映画作家たちの映像は、主要娯楽メディアとしての地位をテレビに明け渡し、撮影所の倒産や縮小、テレビを生業とするスタッフや技術の交代、黒白からカラー撮影へと変化する中で、メディアの一部としてさまざまな形で「わかりやすさ」を目指す明るくクリアな画面と文字情報への従属に対する「抵抗」を、観客にとっての「見えにくさ」や闇として示すことになった。一九七〇年代の優れた日本映画は、そうした「抵抗」のドキュメンタリーなのである。(前掲『フレームの外へ』、192頁)

 大島渚、松本俊夫、鈴木清順、加藤泰。赤坂が名前を挙げる監督たちは、およそ1970年代の日本映画のさまざまな場所で、こぞって「明るくクリアな画面」に「従属」していく映像メディア文化の内部で、いうなれば「「見えにくさ」による情報化批判」(赤坂)の試みを同時多発的に実践していたのだった。そして、そのいとなみは、ビデオからテレビゲーム、そしてインターネットから動画サイトが登場する1980年代から21世紀の現在にいたるまで、相米慎二、勝新太郎、黒沢清、北野武、青山真治、堀禎一……といった「優れた『現代映画』」作家たちによって、連綿と引き継がれていったと整理される。

『スパイの妻<劇場版>』

 つまり、赤坂はいわば「暗い画面」=「見えにくさの倫理」とでも呼ぶべき現代映画史観を手広く描いてみせるのである。多少、現代思想的な註釈をつけておけば、ここで赤坂が主張する「メディア批判」=「見えにくさ」とは、ようは1980年代あたりの表象文化論やメディア批評の分野でよくいわれていた「表象不可能性」の問題のことだろう(たとえば、赤坂のいう「メディア」と「現代映画」の対比は、蓮實重彦の「物語」と「小説」や柄谷行人の「特殊性」と「単独性」などの対概念と相同的である)。そして、たとえば黒沢清監督の『スパイの妻<劇場版>』(2020年)など、彼らのごく近作を観てみても、(黒沢の新作も、ある種の「密室」の映画だったが)確かに赤坂のいった問題系は引き継がれているように見える。

オルタナティヴとしての「明るい画面の映画史」の可能性

 そして、赤坂が出している映画監督たちの固有名に窺われるように、これまでの映画批評では、撮影所システムの時代からの映画史的記憶を重視し、大文字の「シネマ」の理念を信奉する批評家たちは、赤坂のいう「暗い画面」=「見えにくさの倫理」に準じる/殉じる映画作家を一貫して擁護し続けてきたわけだ。

 さて、もうここで示されるべき風景は明らかだろう。

 すなわち、赤坂がここで「優れた「現代映画」」との対立軸において批判的に対象化する「メディア」の特徴とは、先ほどの黒田の大林=角川映画評をそっくりそのまま反復している。つまり、「暗い画面の映画作家」たちがテレビ的画面のフラットさに対抗して先鋭的な映画を作り始めたのとほとんど同時期に、まさにテレビ草創期のCMディレクターという「映画」の外部から出発し、底抜けに「明るい」、「アニメ的」な「画面」を半世紀以上ものあいだ一貫して作り続けた大林と、それ以降の岩井や新海の現代映画の系譜とは、赤坂が描き出した「暗い画面の現代日本映画史」と対極、あるいはオルタナティヴにあったものなのだ。

 そして、だからこそ、これもよく知られるように、大林もその「チルドレン」を自認する岩井俊二も(ついでにいえば彼らの想像力と密接に結びつく角川映画も)、彼らの作る作品は、同時代の映画批評家たちから「こんなものは映画じゃない」と長らく否定的に評価され続けてきたのだ。しかし、そんな彼らの「画面」は、いまや『君の名は。』の新海誠やInstagramのそれへと連なっているのである。

 まとめよう。ぼくたちは、おそらくポスト撮影所システム時代の現代日本映画に、「明るい画面の映画史」と「暗い画面の映画史」という2種類の潮流を仮説的に見出すことが可能だ。

 そして、これまでの映画批評で相対的にポジティヴに評価されてきたのは、おもに後者のほうの作家や作品だった。しかし、前者の系譜は、いってみればそうした古典的な「シネマ」の理念や慣習をポストメディア的に撹乱してみせる「ポストシネマ的」とでも呼べるような創造性の、重要な起源のひとつとしてみなせるのではないだろうか。

 そのささやかな傍証となるかどうかわからないが、最近のぼくが感じることでいえば、ここにはまさに赤坂のような表象不可能性の問題とも馴染み深い映画批評家・蓮實重彦の仕事の変化が挙げられる。近年の蓮實の仕事や主張に明らかな態度変更が見られることをぼくはかねてから指摘してきたが、それはここ最近彼が出した新著からもますます如実に感じられた。

 たとえば、蓮實にとって初の単著の新書となった『見るレッスン――映画史特別講義』(光文社新書)では、「とにかく、ごく普通に映画を見ていただきたい。[…]もっぱら自分の好きな作品だけを見つけるために、映画を見てほしい」(3頁)と読者に鷹揚に語りかけている。ここには、あの「あなたに映画を愛しているとは言わせない」(蓮實のウェブサイト名)と喝破したかつての「深さ」はなりを潜め、代わってあっけらかんとした(蓮實らしからぬ)「フラットさ」(浅さ)が露呈している。また、前後して刊行されたジャズ評論家・瀬川昌久との対談集『アメリカから遠く離れて』(河出書房新社)では、これまでほとんど言及されることのなかった音楽やアニメ(!)について語っていたりするのだ。こうした蓮實の態度変更にも、どこか「明るい画面」のパラダイムの全景化と関係するものがあるような気がしてしまう。

 さて、蓮實論はまた別の場でゆっくり再開するとして、もちろん、ぼくもまた、「暗い画面の映画史」の系譜の重要性を低く見積もるわけではない。しかし、批評家として、21世紀の映画や映像文化の動向を考えるときにより興味深く、賭けてみたいのは、「明るい画面」のほうである。この連載ではこれ以上深くは論じられないが、今回名前を触れた大林や岩井、新海、庵野、市川崑といった監督以外にも、おそらく川島雄三や岡本喜八、中平康、実相寺昭雄……といったひとびとがこちらの系譜に含まれるように思われる。こうした観点から、従来の日本映画史の見取り図を刷新することも可能だろう。そして、今回、論じてきたように、この「明るい画面の映画史」は、ぼくの見立てでは、おそらく海外の映画史にもある程度当てはまるものだと考えられる。

 ……というわけで、今回は、宮崎と半藤の対話を導入に、「明るい画面」と「暗い画面」の対比を歴史的視野からかなり踏み込んで輪郭づけてみた(そういえば、このふたりが揃って私淑した司馬遼太郎も、「明るい明治」と「暗い昭和」の対比を終生描き続けた作家だった……)。だが、連載第2回で論じた現代の「暗い画面」の映画は、今回見た「暗い画面の映画史」とどのように関係するのか。あるいは、大林的な「明るい画面」と新海・京アニ的な「明るい画面」のあいだに差異はあるのか、など、積み残した問いもいくつかある。

 次回は、ここまで論じてきた議論を総括的にまとめて、半年間にわたった連載を着地させたい。

■渡邉大輔
批評家・映画史研究者。1982年生まれ。現在、跡見学園女子大学文学部専任講師。映画史研究の傍ら、映画から純文学、本格ミステリ、情報社会論まで幅広く論じる。著作に『イメージの進行形』(人文書院、2012年)など。Twitter

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