大河ドラマ『逆賊の幕臣』松坂桃李の配役で注目、小栗忠順の生涯とは? 歴史小説家・佐藤雫『残光そこにありて』評

鎌倉幕府の若き三代将軍・実朝と、京から彼のもとに嫁いできた公家の姫・信子(坊門信清の娘、のちの西八条禅尼)。陰謀渦巻く鎌倉で、静かに育まれていく2人の「愛」を、たおやかな筆致で描いた傑作小説『言の葉は、残りて』でデビューした歴史小説家・佐藤雫。その後も、茶々と大野治長の「絆」を描いた『さざなみの彼方』や、細川ガラシャと忠興の歪んだ「愛」を描いた『花散るまえに』など、時代に翻弄された者たちの秘めたる「思い」を描いてきた彼女が、その最新刊『残光そこにありて』(中央公論新社)で取り上げたのは、意外にも江戸時代末期の旗本・小栗忠順(ただまさ)だった。そう、2027年のNHK大河ドラマ『逆賊の幕臣』の主人公であり、松坂桃李が演じることが発表されている人物だ。
江戸幕府の最終局面において、外国奉行、勘定奉行、軍艦奉行など、数々の役職を歴任しながら、最後まで幕府に尽くしつつも、徹底抗戦を主張したため、新政府から危険視された小栗忠順。大河ドラマの主人公になることが発表され、今後ますます注目を集めるであろう人物とはいえ、これまでの佐藤の作品からは、やや意外とも思える人選というのが、当初の感想だった。その真意は、果たしてどこにあるのだろうか。物語は、徳川家譜代の名家・小栗家の嫡男である21歳の忠順が、自ら馬を駆って10歳以上も年の離れた許嫁・道姫のもとを訪れる「序章」から幕を開ける。
その道中で、かつて小栗家に奉公していた行商人・利八に声を掛けられた忠順は、幼い道姫の手土産にしようと彼から金平糖を買い上げる。利八とは、のちに三野村利左衛門と名を改め、三井財閥中興の祖となる人物だ。その年に若くして御番入りした忠順だが、幕府を取り巻く状況は年々騒がしいことになっている。諸外国から開国と交易を求められているのだ。そして、月日は流れ……33歳となった忠順が、時の大老・井伊直弼によって、幕府遣米使節団に随行する「目付」を任じられたところから、彼(と江戸幕府)の怒濤の日々がいよいよ本格的に始まるのだった。
忠順が乗船するアメリカ軍艦・ポウハタン号と共にワシントンに向かう幕府の軍艦・咸臨丸の艦長を務める勝麟太郎――のちに忠順にとって最大のライバルとなる勝海舟との出会いから、渡航中に知った最大の理解者・井伊直弼の死。国内外の圧力によって窮地に立たされた幕府は、それでもなお、圧倒的に数字に強い忠順の能力と、たとえ外国人が相手でも物怖じしない態度を頼って、彼を次々と要職に就けては罷免する(その能力は誰しもが認めるところではあったものの、彼の直截的な物言いは、幕臣の多くから反感も買っていたようだ)。
しかしながら、そのような仕打ちを何度受けようとも、忠順の「忠義」は一切揺らぐことがなかった。怜悧な状況分析力と、合理的な判断力をもった彼が見据えているのは、幕府の未来ではなく、この国の未来なのだから。ロシアによる対馬占拠問題に奔走し、勘定奉行として幕府の財政立て直しに尽力する忠順。彼の頭の中にあったのは、西欧で知った「コムペニー(株式会社)」の構想であり、横須賀造船所の建設であり、果ては郡県制の構想まで思い描いていたという。
そう、本書は、大隈重信をして、のちに「明治政府の近代化政策は、小栗忠順の模倣にすぎない」と言わしめた、忠順の功績を駆け足で辿るには、格好の一冊であることはもとより、昨今各方面で再考が求められるようになっている「明治維新」の内実について、改めて考えるきっかけとなるような一冊なのだ。けれども、それ以上に重要なのは――『残光そこにありて』というタイトルが指し示す、この作者ならではのペーソスなのだろう。本書の「序章」と「最終章」は、ある印象的な一節がリフレインする構成となっている。
「一つ、瞬いて、その目を開ける。雲間から陽の光が、射し込んでいた。広がる潦(にわたずみ)の煌めきに、微笑んだ。それはまるで、これから進んでいく先を、輝かせているようだったから。」
「潦(にわたずみ)」とは、雨が降ったあと、地上に溜まった水が流れ出る様子を意味する。そこに映し出される陽光の煌めきに、忠順はこの国の未来の輝きを夢見たのだろう。彼自身は、生きて見届けることはなかったものの、この道をゆけば間違いはないという確信のようなもの。それを「希望」と呼んでも差し支えないだろう。そこで思い起こされるのは、武力ではなく言の葉で世を治めたいと願った『言の葉は、残りて』の若き将軍・実朝の姿だった。その叶わぬ夢が、やがて「御成敗式目」として実現したように。
あるいは、潦の煌めきに微笑む忠順の姿に、「彼らは明治という時代人の体質で、前をのみ見つめながら歩く。のぼってゆく坂の上の青い天に、もし一朶の白い雲がかがやいているとすれば、それのみを見つめて坂をのぼってゆくであろう」という司馬遼太郎の『坂の上の雲』の有名な一節を対応させることも可能なのかもしれない。先述の大隈の言葉ではないけれど、志半ばに斃れた忠順が準備した「明治」という時代を生きた人々が、やがて坂の上の雲を仰ぎ見るようになる。その土台を準備したのは、「逆賊の幕臣」として歴史から葬り去られた、小栗忠順という人物ではなかったのか。激しく揺れ動く時代の中で、自らの理想を抱きながら、同時代の多くの人々に理解されることなく、志半ばで斃れていった人物の「内実」に、柔らかな光を当てること。その意味で、これは間違いなく佐藤雫の小説なのだと思った。
■書誌情報
『残光そこにありて』
著者:佐藤雫
価格:2,310円
発売日:2025年6月20日
出版社:中央公論新社























