【連載】福嶋亮大「メディアが人間である」 第12回:ポストトゥルースから物語中毒へ

福嶋亮大「メディアが人間である」第12回

 21世紀のメディア論や美学をどう構想するか。また21世紀の人間のステータスはどう変わってゆくのか(あるいは変わらないのか)。批評家・福嶋亮大が、脳、人工知能、アート等も射程に収めつつ、マーシャル・マクルーハンのメディア論やジャン・ボードリヤールのシミュラークル論のアップデートを試みる思考のノート「メディアが人間である」。

 第12回は、SNS上のデマやフェイクニュースによって「ポストトゥルース」の時代が訪れたと言われる現在の状況が、人々を「物語中毒」に陥らせるプロセスとして進行していることを、新聞やインターネット、生成AIといったメディア環境の変遷をたどりながら考察する。

第1回:21世紀の美学に向けて
第2回:探索する脳のミメーシス
第3回:アウラは二度消える
第4回:メタメディアの美学、あるいはメディアの消去
第5回:電気の思想――マクルーハンからクリストファー・ノーランへ
第6回:鏡の世紀――テクノ・ユートピアニズム再考
第7回:21世紀の起源――人間がメディアである
第8回:モデル対シミュレーション
第9回:パラ知能としての生成AI――あるいは言語ゲームの多様性
第10回:マルクスとAI
第11回:戦争の承認、承認の戦争

1、マスメディアはすでにポストトゥルースである

W・リップマン『世論(下)』(岩波文庫)

 われわれの通念によれば、メディアとは真実を報告し伝達する装置である。だからこそ、SNS上のデマやフェイクニュースによって、メディアの本来的な機能が破壊されて、いわゆる「ポストトゥルース」の時代が訪れたとも言われる。つまり、真実の追求というマスメディアの本性が、インターネットによって歪曲され毀損されたと一般的には考えられている。

 この意見は正しいように思えるが、私は留保をつけておきたい。なぜなら、もともとマスメディアという装置に、トゥルース(真実)の追求という使命が内在しているわけではないからだ。マスメディアと真実の不一致を明確に問題化したのは、ウォルター・リップマンの1922年の古典的著作『世論』である。彼はそのなかで新聞を引きあいに出しながら、次の有名な一節を記した。

ニュースと真実とは同一物ではなく、はっきりと区別されなければならない。これが私にとってもっとも実り多いと思われる仮説である。ニュースのはたらきは一つの事件の存在を合図することである。真実のはたらきはそこに隠されている諸事実に光をあて、相互に関連づけ、人びとがそれを拠りどころとして行動できるような現実の姿を描き出すことである。(※1)

 ニュースは真実ではない。それは事件を合図するだけである――この見解は、21世紀のインターネット社会の現実も的確に射抜いている。今やさまざまな立場からのニュースやオピニオンがネットに乱立し、真実は一義的に確定されずに分裂し続けている。しかし、もともとニュースそれ自体が真実ではないのだとしたら、このポストトゥルース的状況は例外的ではなく、むしろマスメディアの性質が拡大されたものだと言わねばならない。実際、後の章で触れるが、ゴシップの標的にされた19世紀のキルケゴールのような哲学者にとって、新聞はキリスト教的な真理を破壊し、人類を堕落させる発明にすぎなかった。

佐藤俊樹『メディアと社会の連環』(東京大学出版会)

 むろん、リップマンは真実がどうでもよいと言っているわけではない。リップマンによれば、ジャーナリストにまず要求されるのは「ひとびとの意見形成のもととなるいわゆる真実といわれるものが不確実な性格のものであることをひとびとに納得させること」である(※2)。つまり、一般的な通念とは逆に、ジャーナリストとは真実を知っている人間ではなく、メディアの真実がいかに「不確実」であるかを知っている人間である。そして、この不確実性を重々承知しながら「行動の拠りどころ」としての真実を組織し、それを不特定多数の大衆に向けて提案し続けることが、ジャーナリズムの機能なのだ。真実とは、争論のなかで戦術的に獲得されるものだと言い換えてもよい。

 要するに、マスメディアそのものがすでに潜在的にはポストトゥルースであり、真実の追求はいわば後付けのプログラムである。さらに、マスメディアにおいて保存・複製される情報が、いつ・どこで・誰が目にするか、もはや厳密に特定できないことが、このポストトゥルース的な条件をいっそう際立たせる(※3)。ある時点で「トゥルース」とひとまず認定された情報も、その後も不特定多数の受信者によって解釈される以上、揺らぎを帯びざるを得ない。メディアの示す真理とは、常に暫定的なものである。だからこそ、この不安定さを前提としながら、行動の拠点としての真実を設置し続ける術策が、ジャーナリズムにはたえず要求されることになる。

※1 W・リップマン『世論(下)』(掛川トミ子訳、岩波文庫、1987年)214‐5頁。

※2 同上、217頁。

※3 社会学者のニクラス・ルーマンが、マスメディアの受信者の本質を「多数性」よりも「不特定性」に見出したのは慧眼である。詳しくは、佐藤俊樹『メディアと社会の連環』(東京大学出版会、2023年)146頁以下参照。

2、新聞のモダニズム的形態

 以上を踏まえれば、昨今の日本で「オールド・メディア」と半ば侮蔑的に呼ばれる新聞は、トゥルースへの反省的意識を育てるのにむしろ有効かもしれない。そもそも、今ではもはや意識されないが、新聞の紙面は情報伝達の媒体としては、奇妙で不自然な形態をしている。マクルーハンが1962年の『グーテンベルクの銀河系』で指摘したように、19世紀後半以来のヨーロッパ文学の実験者たちはまさにその新聞の異様さに強く反応した。

ランボーとマラルメが、コールリッジによって「鋳型形成的」な力と呼ばれたすべての機能間の相互作用を表現する手段を発見したのは、日刊新聞の紙面においてであった。なぜならば大衆新聞には固定視点はなく、定まった見解もなく、マラルメがほめたたえたように集団的意識のさまざまな姿勢のモザイクしかなかったからである。(※4)

M・マクルーハン『グーテンベルクの銀河系』(みすず書房)

 新聞の紙面においては、さまざまな情報が「固定視点」をもたないまま、モザイク状に配置される。ランボー、マラルメからジョイスに到る文学のモダニストを刺激したのは、まさにこの情報の「同時性」を演出する新聞の特異な形態であった。

 インターネット上のニュースも並行的に配置されている点では、新聞と変わらない。ただ、電子の画面上では紙の新聞に比べて、情報がはるかにスマートかつスムーズに「生成」されるように感じられる。しかし、真実へのアクセスが表向きバリアフリーで平坦になったからこそ、さまざまな「真実なるもの」が次々と乱立し収拾がつかなくなったのだ。繰り返せば、メディアのトゥルースとは本来、リップマンの言う「不確実性」の海のなかで生産されるのであり、クリック一つで自動的に生成されるものではない。電子メディア以前の人間は、新聞という奇妙でいびつなモザイク的伝達形式において、真実をめぐるゲームを続けていた。われわれはAIを用いた「なめらかな社会」を夢見る前に、そのことを改めて思い出すべきではないか。

※4 M・マクルーハン『グーテンベルクの銀河系』(森常治訳、みすず書房、1986年)407頁。なお、マクルーハンのメディア論に先駆けて、新聞や雑誌の切り抜き、廃品やタイヤなどの事物をコラージュしたアメリカのロバート・ラウシェンバーグの絵画は、新聞的モダニズムの一つの極点と言えるだろう。

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