千街晶之のミステリ新旧対比書評 第15回:ジョルジュ・シムノン『サン=フォリアン教会の首吊り男』×斎堂琴湖『桜葬』

千街晶之のミステリ新旧対比書評 第15回

紙幣を燃やすという行為の絶望

『サン=フォリアン教会の首吊り男』(早川書房)

 料亭の玄関で「暗くてお靴が分らないわ」と靴を探す女性に、成金が百円札に火をつけてあたりを照らし「どうだ明るくなったろう」と自慢げに言い放つ——そんな絵を見た記憶があるひとは多いだろう。画家・小説家として活躍した和田邦坊が、第一次世界大戦時の空前の好景気に乗じた船成金を諷刺して描いた漫画である。モデルといわれる船成金の山本唯三郎は、実際に料亭で百円札(当時の最高額紙幣)の束を燃やして靴を探させるなどの豪快な奇行の数々の一方で慈善事業も行ったが、大戦後の恐慌によって没落した。

 こうした金持ちの道楽は別として、紙幣を燃やすという行為は、人間にとって最大の絶望の表現ではないだろうか。ベルギーで生まれ、フランスで活躍した作家ジョルジュ・シムノンの作品に『サン=フォリアン教会の首吊り男』という長篇がある。原書は1931年刊行。初訳は1937年の伊東鋭太郎訳の春秋社版『聖フォリアン寺院の首吊男』で、その後の邦訳では水谷準訳の角川文庫版『サン・フォリアン寺院の首吊り人』が最も古書店で見つけやすかったが、2023年の伊禮規与美訳によるハヤカワ・ミステリ文庫版が現在は入手できる。

 オランダ北端、ドイツとの国境に接したノイシャンツ駅で、フランス司法警察局のジュール・メグレ警視は不審な男を見かける。メグレは男が抱えていた鞄を自分のものとすり替え、ブレーメンまで尾行したが、鞄がすり替わっていることに気づいた男はホテルで拳銃自殺を遂げてしまう。男はルイ・ジュネと名乗って生活していたが、本名ではないようだ。そして男が滞在していた部屋からは、自ら燃やしたらしい大量の紙幣の燃えさしや灰が見つかる。メグレ・シリーズの初期の代表作であり、ラストで関係者全員の人生の痛みを理解した彼の、警察官という立場にこだわらない決断が余韻を残す。

 この作品を気に入った江戸川乱歩は、日本を舞台に翻案した長篇『幽鬼の塔』を1939年から翌年にかけて連載した(初単行本化は1946年のふじ書房版。現在は春陽文庫版が手に入る)。原典をかなり改変したため、シムノンに断りを入れることはしなかったという。

 原典のメグレにあたる主人公は、素人探偵の河津三郎青年(児童向けにリライトされたポプラ社版では、主人公は若き日の明智小五郎に改変された)。不審な男を見かけて尾行するのも、男の鞄を自分のものとすり替えるのも原典通り。すり替えに気づいた男は持っていた十円の札束を燃やし、上野公園の五重塔で首を吊って死ぬ。原典ではジュネと名乗る男が紙幣を燃やしたことが判明するのは中盤になってからだが、『幽鬼の塔』では冒頭で紙幣を燃やして縊死する流れとなっており、こちらのほうが読者に与えるインパクトは強烈だ(この小説をTVドラマ化した『五重塔の美女 江戸川乱歩の「幽鬼の塔」』では、札束に火を放ち狂気の笑いを響かせる草薙幸二郎の演技が印象に残る)。いずれにせよ、貧しそうな出で立ちの男が札束を燃やして自らの命を絶ったのは何故かという謎は魅力的だ。河津三郎はメグレとは程遠い性格だが(男の自殺に責任を感じている様子もない)、原典に出てくる教会での首吊りの絵を五重塔での首吊りの絵に改変するなど、乱歩らしい翻案の腕前は味わえる。

金銭をめぐる信じられないような幸運と不運

『桜葬』(光文社)

 さて、同じように冒頭で紙幣が強烈な使われ方をするミステリ小説がある。『燃える氷華』(光文社文庫)で第27回日本ミステリー文学大賞新人賞を受賞した斎堂琴湖の第2長篇『桜葬』だ。2026年、光文社から書き下ろしで刊行された。

 プロローグは、埼京線の武蔵浦和駅のホームで、男がスーツケースから取り出したバラバラ死体を線路に投げ込んで火を放ち、更にホームに紙幣を撒き散らすシーンから始まる。周囲が呆気に取られる中、男は武蔵野線のホームへと移動し、列車に身を投じて死ぬ。

 プロローグの後の第一部では、その3年前の事件が描かれる。2020年3月、浦和署の刑事・氷室湊は、浦和と名のつく駅のどこかを爆破するという予告電話があったため駆り出されたが、その際に見かけた不審者を逮捕し、秋の人事で埼玉県警本部に異動した。彼は、感情の動きを表に出さず、馴れ合いめいた人間関係を好まないため「氷の氷室」と呼ばれる人物だ。この第一部は短いが、重要な伏線がさりげなく幾つも張られている。

 それから3年後、プロローグで描かれた武蔵浦和駅の事件が起きる。たまたま近くにいた氷室は現場に急行したが、バラバラ死体には頭部だけがなく、自殺した犯人の死に顔は笑みを浮かべているように見えた。『サン=フォリアン教会の首吊り男』や『幽鬼の塔』では、冒頭の自殺者の身元を調べるうちに過去の事件が浮上してくる展開となっているけれども、本書の場合、被害者と加害者という2人の死者の身元と、彼らの接点は何かを探り当てなければならない。

 言ってしまえば、2人の死の背景にあるのはお金である——こう書いても、どういうことかは真相を明かされるまではわからないだろう。金銭をめぐる信じられないような幸運と不運が、彼らの運命を狂わせ、挙げ句に死に至らしめた。被害者への殺意だけではなく、彼らを破滅させた金銭そのものへの憎しみ……それが、バラバラ死体を線路に投じてわざわざ紙幣を撒くという異常な行動に犯人を駆り立てたのではないか。冒頭で死んでしまう犯人の心理自体ははっきり描かれるわけではないものの。

 男が紙幣を撒き散らしてから自殺するというショッキングな発端で読者を惹きつける点は『幽鬼の塔』に近い。しかし、『サン=フォリアン教会の首吊り男』や『幽鬼の塔』の自殺者からは、紙幣を毀損するほどの行為に人間を駆り立てた深い絶望が感じ取れるのに対し、『桜葬』の死者は何故、笑みを浮かべていたのか。主人公である氷室自身も抱えている人間の祈りと怒りが、深い感銘を残す小説である。

関連記事

リアルサウンド厳選記事

インタビュー

もっとみる

Pick Up!

「連載」の最新記事

もっとみる

blueprint book store

もっとみる