【連載】福嶋亮大「メディアが人間である」 第10回:マルクスとAI

福嶋亮大「メディアが人間である」第10回

 21世紀のメディア論や美学をどう構想するか。また21世紀の人間のステータスはどう変わってゆくのか(あるいは変わらないのか)。批評家・福嶋亮大が、脳、人工知能、アート等も射程に収めつつ、マーシャル・マクルーハンのメディア論やジャン・ボードリヤールのシミュラークル論のアップデートを試みる思考のノート「メディアが人間である」。

 第10回は、機械と人間にインタラクティヴな共生関係が成立している理由とその帰結について、コンピュータの発明を準備した数学者チャールズ・バベッジの思想と、それに言及したマルクス『資本論』などから読み解く。

第1回:21世紀の美学に向けて
第2回:探索する脳のミメーシス
第3回:アウラは二度消える
第4回:メタメディアの美学、あるいはメディアの消去
第5回:電気の思想――マクルーハンからクリストファー・ノーランへ
第6回:鏡の世紀――テクノ・ユートピアニズム再考
第7回:21世紀の起源――人間がメディアである
第8回:モデル対シミュレーション
第9回:パラ知能としての生成AI――あるいは言語ゲームの多様性

1、機械の制約条件としての人間

W・ブライアン・アーサー『テクノロジーとイノベーション』(みすず書房)

 前回に引き続き「生成」と「AI」の問題を、テクノロジーに即して考えてみよう。複雑系経済学者のブライアン・アーサーは、テクノロジーの「自己組織化」に力点を置いて、その自律的な進化史を(半ばSF的なやり方で)描いた。彼の考えでは、政治や経済がテクノロジーを主導するのではなく、テクノロジーそのものに自らを生成変化させる契機が内在している。テクノロジーがいわば生命体のように、さまざまな変異を起こしながら自らの子孫を再生産するというのだ。

 もっとも、このテクノロジーの生成(自己組織化)は無軌道なものではなく、ヒューマンな限界を課せられている。そもそも、アーサーによれば、テクノロジーの最も基本的な定義は「人間の目的を達成する手段」である(※1)。ならば、人間の知覚や行動の能力に不適合なテクノロジー、つまり「人間の目的」に寄与しないテクノロジーは、原理的には開発可能であったとしても、その生き残りの可能性は狭められるだろう。特に、ITについては「われわれが思考するごとく」(ヴァネヴァー・ブッシュ)という要求が、強い制約条件となる。つまり、人間にとってITが環境であるように、ITからすれば人間が環境となる。インターフェースという概念は、この両者の齟齬やズレを緩和するために要請される。

ノルベルト・ボルツ『グーテンベルク銀河系の終焉』(法政大学出版局)

 現代のアーティストがやっているのは、この制約条件に介入することである。メディア理論家のノルベルト・ボルツによれば、アートとは「蓋然性の低さの総体」として理解できる(※2)。つまり、ふつうの条件下ではありそうもないこと、起こりにくいことを、人工的なデザインのもとで実験的に「生成」する――それがアートの役割として期待されている。アートとはいわば定数を変数に変えて、ありそうもないことを現実化するオペレーション(操作/手術)なのだ。特に21世紀のアーティストは、ただ絵や彫刻を制作して終わりというわけにはいかない。作品が鑑賞者の神経システムにどう作用するか、既存の環境や制度にいかに干渉し得るか、政治や経済とどう切り結ぶか等々の諸問題を研究しながら「ありそうもないこと」を展示において引き起こさなければならない。アーティストは作品を――ひいては自分自身を――メディアの変異株として機能させるのだ。

 ともかく、機械と人間は一方的な支配関係ではなく、お互いの変化をときに加速させ、ときに制約するという関係にある。それにしても、なぜこうしたインタラクティヴな共生関係が成立したのだろうか。ITが人間にとって、強烈な異物ではなく、むしろときにその存在すらほとんど意識させない「スマート」な対象になったのは、なぜだろうか。AIが社会生活に入り込み、人間の思考にも比較的スムーズになじむのは、考えてみればずいぶん不思議なことではないか。

 コンピュータやインターネットは現代の人間にとって不可欠のツールとなったが、人間と機械がこれほど深く一体化し共生しているのは、決して自明なことではない。それはたんに「ITの開発者が優秀だから」とか「ビジネスやエンターテインメントのために利用しやすいから」というような即物的な理由には還元できない。結論から言えば、それはわれわれの「知能」のあり方が、ITやAIに適合するようにあらかじめ調律されているからだ。つまり、AIのみならず、人間の知能そのものが歴史的・社会的な構築物なのである。

 AIを思想的に考察するとき、しばしば技術史や言語哲学、脳科学などが参照される。私も前回ウィトゲンシュタインを応用して、AIが言語ゲーム(生活形式)の多様性を浮き彫りにすると論じたが、実はそのような「哲学」だけではAIの理解には不十分である。これらの定番のアプローチは、知能に関する社会思想史的な考察によって補完されねばならない。なぜなら、テクノロジーに(アーサーが言う意味での)自律的進化の側面があるのは確かだとしても、その「生成」は当然ながら、常に社会に取り囲まれ、条件づけられてきたからである。

※1 W・ブライアン・アーサー『テクノロジーとイノベーション』(日暮雅通訳、みすず書房、2011年)40頁。
※2 ノルベルト・ボルツ『グーテンベルク銀河系の終焉』(識名章喜他訳、法政大学出版局、1999年)194頁。

2、バベッジとマルクス

Matteo Pasquinelli『The Eye of the Master: A Social History of Artificial Intelligence』(Verso Books)

 近年、イタリアのオペライズモ(労働者主義)思想を背景とするマッテオ・パスクィネッリは、AIの進化をまさに社会思想史的な観点から捉えるユニークな著作を刊行した。以下、それに沿って論点を示していこう。

 AIは「知能」に関するわれわれの偏見を修正するという点で、教育的な装置である。AIによるオートメーション化の期待が高まるにつれて、一見して単純な肉体労働にも思える多くの仕事が、いかに「知性的」で高度な認知能力を要する作業であるかが分かってきた。例えば、クルマの運転は遠からずAIによってオートメーション化されると言われてきたが、テスラのイーロン・マスクが認めるように、完全な自動運転は今なお「ハード・プロブレム」であり、実用化への道は遠い。パスクィネッリが言うように「AI研究のおかげで、トラックドライバーはインテリゲンツィアの神殿に達した」(※3)。クルマの運転を含めて、多くの肉体労働は、実は機械に置き換えにくい知性的な仕事であり、かえっていわゆる頭脳労働のほうが生成AIによってオートメーション化されつつあるのだ。

カール・マルクス『資本論 第一巻(上)』(ちくま学芸文庫)

 さて、ここで重要なのは、労働をアルゴリズムに置き換えるというオートメーション化の欲望が、どこから来たのかという問いである。それを考えるには、労働とコンピュータが、実はもともと不可分であったことを知る必要がある。パスクィネッリが強調するように、1820年代以降に階差機関および分析機関を試作し、コンピュータの発明を準備した数学者チャールズ・バベッジこそが、労働(とりわけ分業の問題)とアルゴリズムを結びつけた張本人なのである。

 面白いことに、当時、バベッジの思想の重要性を認識していたのがマルクスであった。マルクスは『哲学の貧困』や『資本論』でたびたびバベッジに言及しているが、そこで注目されたのは、先駆的な計算機科学者バベッジではなく、労働の分業化・オートメーション化のもたらす効率性を追求する経済学者バベッジである。マルクスは『資本論』でバベッジの著作『機械とマニュファクチュアの経済論』(1832年)――産業社会のマニュアルとして当時広範な影響力をもっていた――に依拠して、多くの記述を引用している。以下はその一例である。

仕事を、それぞれに異なる熟練度や力を必要とするいくつかの作業に分けると、工場主は各作業に適合した量の力や熟練度を正確に把握できる。反対に、仕事全体を一人の労働者が果たさなければならないとすれば、同じ一人の個人が、きわめて繊細な仕事に足る熟練度と、きわめてきつい仕事に足る力の両方を持っていなければならないだろう。(※4)

 バベッジによれば、経営者が労働者を効率的に管理し、その生産性をあげるには、仕事をいくつかの作業に分割することが望ましい。マルクスはこのバベッジの分業論を根拠として、産業社会の労働者は「特別な機能」をもって規則的に動く「機械部品」になるように強制されると見なした。分業のシステムが整備されるにつれて、労働者はある作業に特化したパーツ(器官)やアルゴリズムに近づく――このようなバベッジ=マルクスの説明を受け入れるならば、労働の分業こそが、労働の機械化=オートメーション化を可能にする条件だと言わねばならない。

 もともと、バベッジはカリキュラムの硬直化していた大学よりも、先進的な知識を蓄えた産業社会のワークショップ(作業場)に深い関心をもっており、それが『機械とマニュファクチュアの経済論』にも反映されている。彼のコンピュータの思想も、たんに書斎における抽象的な数学の研究から来たという以上に、産業化する仕事の現場でのディベートや体験に根ざしたものである。ゆえに、パスクィネッリに言わせれば、バベッジは多くの伝記で言われるような数学者というだけではなく、労働環境におけるデザインの最適化とリソースの効率化を試みる「アルゴリズム思想家」として理解されるべきである(※5)。

 バベッジは自動化された計算機によって対象を「分析」(analyze)するとともに、労働を「分解」(analyze)してそれぞれのパーツを自動化・機械化するという構想を推し進めた。この両者は決して別物ではなく、むしろ密接に関わっている。コンピュータはたんなる数学や論理の分野の発明ではなく、最初から産業社会における労働のオートメーション化の要求と関わっていた。そこに、バベッジ以来のITが、20世紀以降の社会・経済にも驚くほどスムーズに適合した要因がある。要するに、労働問題こそがコンピュータの思想のコアなのだ。

※3 Matteo Pasquinelli, The Eye of the Master: A Social History of Artificial Intelligence, Verso, 2023, p.2.
※4 カール・マルクス『資本論 第一巻(上)』(今村仁司他訳、ちくま学芸文庫、2024年)643頁。
※5 Pasquinelli, op.cit, pp.54,68.

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