【連載】豊﨑由美 × 佐々木敦『海外文学(ガイブン)レスキュー隊!』#01〈前編〉 パーシヴァル・エヴェレット問題とは?

書評家・豊﨑由美(通称トヨザキ社長)と批評家・佐々木敦が、海外文学(通称=ガイブン)をテーマにした新たなトークイベント『海外文学(ガイブン)レスキュー隊!』を、4月24日(金)より三鷹市のイベントスペース「SCOOL」にてスタートした。
原語で読む一部の読者を除き、翻訳によって初めて日本の読者に届く海外文学は、日本の出版状況においてマイナーな存在とされてきた。しかし近年、その状況はさらに厳しさを増し、2026年4月現在、海外文学を取り巻く環境は一層の危機に直面していると指摘されている。
こうした状況を踏まえ、本イベントでは、翻訳・編集・出版を担う関係者へのリスペクトを込め、隔月ペースで海外文学の新刊レビューを中心とした定点観測的なトークを実施。イベント後はリアルサウンドブックにて、定期的に記事化していく。
記念すべき第1回の前編では、2025年に初邦訳された『ジェイムズ』(木原善彦訳、河出書房新社)がヒットを記録したパーシヴァル・エヴェレットについてと、豊﨑由美の一推し作品であるクレメンス・J・ゼッツ『丸いもののもつ慰め』について。
パーシヴァル・エヴェレット問題

佐々木:「海外文学(ガイブン)レスキュー隊!」の第一回にお越しいただき、ありがとうございます。日本では何十年も前から、文学や小説が苦しい状況にあると言われ続けていて、中でも特に厳しいのが海外文学の翻訳ということになっています。とはいえ、実際に海外の小説はコンスタントに出版されていて、読めば面白い作品がたくさんある。だから、ガイブンについてじっくり話すことができる場所を作りたかったんですね。豊崎さんは「読んでいいとも! ガイブンの輪」という毎回ゲストを招いた対談のシリーズをずっと続けていらっしゃっていて。
豊崎:今年の12月に100回を迎えます。隔月開催なので一体何年やってきたんだよと。ギネスに申請しようかと(笑)。
佐々木:認定もあり得そうですよね。「海外文学(ガイブン)レスキュー隊!」では毎回、海外小説の新刊の中からお互いのイチ推しを持ち寄って、話を進めていこうと思っています。でもその前に、そもそも「ガイブン」というのは豊崎さんが作った言葉なんですよね?
豊崎:いやいやいや、そんなことはないです。ただ私は積極的に使っているもんだから、それで一部の人に嫌われているところがあるかもしれません。海外文学をガイブンなんて言うなと。
佐々木:身近に感じてもらうために、あえてカジュアルな言い方をするのはありだと思うんですけどね。
豊崎:海外文学は敷居が高いと感じている人は少なくないと思いますが、そんなことはないんですよ。だって原文を読まなきゃいけないわけじゃなく、日本語に訳されているんですから。それに過去、たとえば1970年代あたりと比べると、今の翻訳は充実してます。現代の日本の翻訳家は世界に誇るべき存在です。
佐々木:おっしゃる通りですね。
豊崎:だから私は、受け取る側の問題じゃないかと思ってて。出版社も書評家も、どこかにいるはずの読者を見つけ出して育てていく努力をしなければいけない。でもガイブンの書評を書かせてくれる媒体は少ないし、書評自体書く人が少ないんですよね。
佐々木:そんな状況の中で長年、ガイブンの書評を書いてきたのが豊崎さんです。さて本題に入りますが、いま一部で「パーシヴァル・エヴェレット問題」というのが話題になっているそうですね。

豊崎:話題になっているというか、それこそ私が勝手に言っていることで(笑)。昨年の6月に邦訳が出た『ジェイムズ』が大ヒットして、日本でもエヴェレットへの注目度がすごく上がってるじゃないですか。『ジェイムズ』はマーク・トウェインの『ハックルベリー・フィンの冒険』を、主人公のハックと一緒に行動していた逃亡奴隷のジム(ジェイムズ)の視点で語り直した小説で、全米図書賞とピューリッツァー賞という大きな賞を二つ獲り、他にもいくつもの賞を獲っています。木原善彦さんの訳による日本版も6刷までいっていてびっくりなんですけど、そんなにたくさんの賞をとるほどの作品なのかなって、私は思ってて。
内容的には面白いんですけど、設定に無理があることがどうしても目に付いてしまう。たとえばジムは奴隷でありながら、文学だけでなく高度な哲学書も読み解くほどなんですけど、なぜそうなれたかというと、ジムの主人が懇意にしている判事の書斎にこっそり忍び込んで、本を読み漁ったからだっていうんです。
佐々木:まあ、あり得ない話ですよね。
豊崎:所有者である白人から一日中ずっと仕事を押しつけられているのが奴隷ですから、腰を据えて読み解かなければいけない哲学書に向かい合う時間なんて取れるはずがない。どうしてそんな無理のある設定になったかというと、エヴェレットは19世紀のリアルな奴隷の姿を描こうとしたのではなく、現代の黒人作家の視点で、当時の奴隷の中にもこんな人がいたらいいなという願望を押しつけたからだと思うんです。それで全米図書賞とピューリッツァー賞。白人の選考委員による忖度が入り込んだとしか思えません。
佐々木:『ジェイムズ』の後に、『赤く染まる木々』『消失』とエヴェレットの作品が立て続けに訳出されました。『消失』は、まさに今、豊崎さんが指摘した問題を扱った小説なんですよね。これを読んでから『ジェイムズ』を読み返すと、『ジェイムズ』に対する見方も変わるような気がしました。

豊崎:『消失』は2001年に書かれた作品ですが、2023年に本国で公開された映画『アメリカン・フィクション』の原作として再注目され、それもあっての邦訳出版だったと思います。
あらすじを紹介すると、主人公はロサンゼルスの大学で教鞭をとりながら小説を書いているセロニアス・エリスンという40代の黒人男性で、ジャズ・ピアニストのセロニアス・モンクを連想させる名前からモンクという通称があります。彼が書くものは難解なポストモダン小説で、エージェントからも批評家からも「出来はすばらしいけれども、作品に黒人らしさが足りないから売れない」と言われている。でも、芸術としての小説を志向するモンクは作家に黒人らしさを求めてくる風潮なんて唾棄すべきものだと思っていて、若い黒人女性が書いたいかにも黒人らしいベストセラー小説をちょっと読んだだけで吐き気を催すんです。
そんなとき、ワシントンで暮らす母親がアルツハイマーの症状を見せ始めて、介護にお金が必要になる。困ったモンクは半ばやけくそで、偽名を使って、貧困地区に生まれてチンピラのように育った若者が巻き起こす騒動を描いた小説『FUCK』を書き上げます。当人からしたらクソみたいな作品なんですけど、出版社に高額で買い取られた上に映画化権料が300万ドルにもなり、果てにはモンクが選考委員を務める高名な文学賞の候補作になっていく。
エヴェレットが偉いのは、モンクが書いた『FUCK』の全文を作中に載せていることです。そのおかげで、確かにエンタメとしては面白いけど文学作品が対象になる賞にノミネートされるほどの出来ではないということが読者にも分かる。しかし白人の選考委員たちは、アフリカ系アメリカ人の小説としては近年最高の傑作だと絶賛するんです。これは明らかに逆差別ですよね。
佐々木:そして、エヴェレット自身が『消失』から23年後に書いた『ジェイムズ』でモンクと同じような立場になってしまう。これはある意味、すごい皮肉ですよね。『消失』と『ジェイムズ』の関係は、黒人文化にも深く関わってくる問題だと思います。

豊崎:『消失』というタイトルは、黒人作家らしさを一度身にまとってしまったら、本来の自分のアイデンティティが消えてしまうということから付けられたものでした。だとすれば、エヴェレットは『ジェイムズ』に与えられたいくつもの賞を辞退していいはずなのに、そうはなりませんでした。
佐々木:かつては『消失』を書くほど尖っていたのに、23年の間にエヴェレットの中で何かが変わってしまったのでしょうか? 日本の読者はまだ3冊しか彼の小説を読むことができないので、エヴェレットという作家の全体像を掴みきれていない。木原さんによれば、エヴェレットは1作毎に趣向を変えて、トリッキーな企みに満ちた語り口を見せる作家らしいし、実際に『消失』はローラン・ビネの『言語の七番目の機能』やエンリーケ・ビラ=マタスの作品群のような、固有名詞の多用で読者を幻惑するハイコンテクストな作品でした。
豊崎:とにかく、『ジェイムズ』や『アメリカン・フィクション』によってエヴェレット作品の邦訳が出始めたのはいいことで、他の小説もどんどん訳されてほしいですね。というのが、今、話しておかないと旬を逃してしまう「パーシヴァル・エヴェレット問題」でした。
クレメンス・J・ゼッツ『丸いもののもつ慰め』

佐々木:では、いよいよここからが今回のイチ推し作品の話です。まずは豊崎さんのイチ推しからいきましょう。
豊崎:オーストリアの作家、クレメンス・J・ゼッツの『丸いもののもつ慰め』です。ゼッツは2021年に『インディゴ』という長編が訳されているんですけど、動物実験や動物虐待の話が出てくると聞いて、私は希代のケモノバカなので、どうしようどうしようと思ってるうちに月日が流れてしまい、そのことを今、大変反省しております。というのも、今年2月に邦訳が出た短編集『丸いもののもつ慰め』が本当にすばらしかったからです。今回、最後に取り上げる予定のクリストファー・プリーストの短編集『不死の島へ』には、自分の過去をタイプライターで記すようになったのをきっかけに、自らの現実世界にゲシュタルト崩壊を招いてしまう主人公の話なんですけど、私たちはそういう状態に陥らないように、普段から無意識のうちに自分をチューニングして、現実に合わせようとしていると思うんですよ。つまり、そうやって正気を保っているわけです。そんな私たちのチューニングに狂いを生じさせる20編が収録されているのが、『丸いもののもつ慰め』という短編集です。
この本は実に書評家泣かせで、どの短編もあらすじを紹介したところでその魅力の核に迫ることはできないタイプの小説なんですよね。たとえば一番最初に置かれている「南ラツァルトフェルト通り」は、小説家の〈僕〉がカナダで開催されるオーストリア文化フォーラムに招かれて空港に向かうんですが、よくわからない理由で飛行機が遅延して一向に飛ばない。〈僕〉が嫌になって帰宅すると、なんと家が野戦病院と化していて、妻のマリアンヌが患者の世話をしているという光景に出くわします。
ドイツ語で野戦病院はフェルトラツァルトというらしくて、一応、タイトルに物語の展開は示唆されてるんですけど、唐突に、家が野戦病院になっているっていう状況に、語り手と一緒に読者も呆然とするしかない。そして〈僕〉はこの異様な状況の中でかいがいしく働く妻の姿を見ているうちに、〈この世界の外にあるすべてに対してマリアンヌは常にうわべを装い、自制心、忍耐を要してきたのだ。それは彼女の人生ではなかった〉ことに気づくんです。
この一文を読んで、ハッと気づいたんですね。この話が始まってすぐ、〈僕〉がマリアンヌに〈もう一時間前から起きているんだ。ごめんね、君がいないままで話をはじめて〉と言うセリフがあります。〈君がいないままで話をはじめて〉、つまり最初は〈僕〉のものだった物語が、空港から家に戻ったときから一転してマリアンヌの物語に変わったということです。いつの間にか〈僕〉のターンが終わって、妻のターンが始まっていた、と。
考えてみると私たちはみんな、そんなふうに生きてるんですよね。たとえば私が誰かの家に遊びに行ったとき、頭の中でそこの家のことをあれこれ描写する。でも私が「じゃあね」と帰っていくと、視点人物が切り替わってその家に住んでいる誰かのターンが始まるんです。「南ラツァルトフェルト通り」でゼッツはそういうことをやっているんだと気づいたら、俄然、この短篇が面白くなってきました。
収録されている20篇の中で私が一番好きなのは「その猫はラランドの天空に住む」という作品です。主人公の〈僕〉はアンティークショップで古い写真アルバムを見つけて、そこに写っていたアウトサイダー系の画家コンラーディに興味を持つ。それでコンラーディの評伝を取り寄せて読んでいくと、第一次大戦に従軍している最中に精神科の施設に入所することになったコンラーディにどんどんチューニングが合っていっちゃうという話です。
ゼッツってたまに、不意にへんてこな文章を突っ込んでくるんですよ。「その猫はラランドの天空に住む」だと、〈それは確か午後五時ごろで、地球上のあらゆるものが駐車場のようなものへと変身する、あの時間帯だった〉とか、〈耐えられないほど微細な思考に襲われて、彼の内部で変化しねじ曲がるメカニズムがコーヒーミルにそっくりだと気づいた〉とか、もう何を言ってるのか理解不能(笑)。そういう文章にぶち当たるたびに、こっちのチューニングも狂っていくんです。
この本に収録された20本の短篇には、現実世界とチューニングが合ってない、もしくは合わせようとしない人物ばかりが登場してくるんですけど、中でもコンラーディは私のような奇人変人好きにはたまらないキャラクターです。入院した精神科の施設で医師と面談したとき、彼は女性恐怖症とともに〈脇の下恐怖症〉を患っているという話をします。それは何かというと、脇の下が男性の肛門を思わせて、夜な夜なそこから親指大の頭をした小さな生き物が出てくることがあるんだそうです。もう生粋の狂人でしょ(笑)。それから、夜空の星々を独特な視線で結んでいって、大少年座という星座を独自に発見したりする。そして、語り手の〈僕〉もコンラーディとチューニングが合うことで、やがて夜空に大少年座を見るようになってしまうんです。ラランドってお笑いコンビで知っている方が多いでしょうけれど、ググってみたら天文学者ジョゼフ=ジェローム・ラランドが発見した大熊座の星の名前なんですよね。
佐々木:お笑いのラランドもその星から名前を取ったんですよね。

豊崎:たしかにラランドは大熊座の星だし、コンラーディは大少年座という星座を独自に作るし、語り手の〈僕〉は猫を飼っている。でも、「その猫はラランドの天空に住む」というタイトルに直接結び付く話ではまったくないんですよね。そんなふうにいろいろ考えながら読んでいくと、そんなに長い話ではないのに存外に時間がかかっちゃって。でも面白くて楽しくて仕方ないから、読み進められないのが苦痛だとかはまったく思わなかったんです。『インディゴ』を動物虐待が出てくるからと読み逃していたのを非常に反省しております。この人は本当に面白い!
佐々木:豊崎さんはゼッツの小説には急にへんてこな文章が挿み込まれてくると言ってましたが、それも含めて文章がすごく魅力的な作家なんですよね。何かを形容するときの表現が奇妙で、それって形容になってないんじゃないのと思ってしまう部分もあるんだけど、面白いから読まされてしまう。「迷惑メール」という短編は、完全に言語遊戯の小説で、めちゃくちゃな文面の迷惑メールが出てくるので、訳者の犬飼彩乃さんは大変だったろうなと思います。その一方、お話作りの側面で優れている短編もあって、たとえば、「オコジョオコジョオコジョ」は男の子と盲人の女性の話です。男の子が働いているカフェに盲人同士のカップルがやって来るんですけど、あるとき女の人だけになって、話を聞いたら彼と別れたという。それで男の子はその人を好きになって、彼女の家に遊びにいくんです。すると天井やトイレの壁など家のいたるところに「あばずれ」とか罵倒語がたくさん書かれていて、彼女は盲人だから気づいていないようなのだけど、男の子はその事実を伝えることができない。
豊崎:寝室にも書かれているから、エッチする気も萎えてしまうんですよね(笑)。
佐々木:そんな罵倒語ばかりの中に一つだけ「オコジョ」と書いてあるところがある。原文は違う単語なんだけど、要はなぜそこにそんな言葉が書いてあるのか、まるで意味がわからない。
豊崎:でもそれが男の子にとっての慰めになるんですよね。
佐々木:「丸いものがもつ慰め」という書名と同じ言葉が作中に出てくる「マジシャン」という短編は、中年の女の人が、お金を対価に性の相手をしてもらう、今で言う女性用風俗を家に呼ぶんですけど、ベッドには交通事故に遭い体が動かなくなった息子が寝ているんです。その横で性的な行為をしようとするから当然、男娼の方は嫌がるんですけど、息子は何も見えないし聞こえないから気にしないでくれと。
豊崎:でも、それは彼女の本意じゃないんですよ。〈私は自分の時間の九十九%を、あの子が身の周りで起こっていることを全部分かっていると思い込んで過ごしているの〉というセリフがあって。
佐々木:そういうふうに生きていく中で心に欠損を負ってしまった人の話がかなりのウエイトを占めているのも、この短編集の特徴ですね。バラエティーに富んでいるようで、ある種のテイストは一貫している。
豊崎:本当にすごい短篇集でした。翻訳してくれてありがとうございます。『インディゴ』も絶対に読もうと思います。
※〈後編〉に続く
■関連情報
次回の『海外文学(ガイブン)レスキュー隊!』は渋谷にて7月開催予定。
詳細は近日発表します。





















