杉江松恋の新鋭作家ハンティング ヲタク落語家・春風亭吉好のライトノベル『魔王は扇子で蕎麦を食う 落語魔王与太噺』

ヲタク落語家・春風亭吉好のライトノベル?

 珍騒動の数々は大いに笑えるが、ページを繰っているうちにあることに気づかされる。ハチの不始末と、その処理に追われる陽太の苦労を読んでいるうち、いつの間にか前座と寄席で演じられる落語について詳しくなっているのである。これが本書の第一の特徴だ。美少女に生活をかき乱されるドタバタコメディの要素はもちろんあるが、それと落語の基本を学べる入門書という性格が合体した作品になっているのである。お勉強臭がまったくしないので、楽しく落語の世界について知ることができる。意外にも、非常にまっとうな落語小説なのだ。

 登場人物はさすがに架空の名前だが、地名や建物名などはすべて実際のものが使われている。落語芸術協会は、新宿末廣亭、浅草演芸ホール、池袋演芸場、上野広小路亭の四ヶ所で定席と呼ばれる定期興行を打っているが、それらも実名で描かれる。浅草演芸ホールにはねずみ対策を兼ねて飼われているチロリという看板猫がいるが、もちろん登場する。ホールの近くにある翁蕎麦は、さすがに一字違いのあきな蕎麦として出てくる。そういう小さな違いはあるが、ほぼ実名だ。つまり現実の落語界とは地続きのものとして『魔王は扇子で蕎麦を食う』は書かれている。

 これは春風亭吉好が現役のプロ落語家だったからできたことだ。「協力 落語芸術協会」と扉裏には書かれている。もちろん公式ではないが、落語芸術協会公認小説と言ってもいいのではないだろうか。過去にもさまざまな落語小説、落語漫画が存在したが、実名を使うことができているものはあまりない。一部の私小説的な作品を除いて、みな団体名をはじめとするすべてが架空のものになっているのだ。本書の強みである。

 ハチによって引き起こされる騒動が一段落したころ、陽太が自分自身と向き合わなければならなくなるイベントが発生する。前述したように、彼には人前で落語をうまく演じられない弱点が存在する。だが、そんなことを言っていられなくなるのだ。意外な人物がライバルとして浮上してくる。落語と真剣に対峙したとき、陽太には何が見えるのか。シリアス度が増した後半は、落語の本質とは何かという芸道小説になっていて、前半のコミカルさとは違った楽しみがある。陽太の成長小説としての色合いが強くなったところでクライマックスが訪れ、大団円となる。

 構造としては非常によくできた娯楽小説になっており、どんな層の読者にも広く薦めることができる。また一人、才能のある芸人小説家が誕生した。吉好はヲタク落語家を名乗っており「ツンデレ指南」などさまざまな新作を書いている。アニメや萌えについての造詣も深く、まだまだ引き出しに煩悩を詰め込んでいそうである。落語道に精進するのが最優先だろうが、ぜひまた小説も書いてもらえると嬉しい。今度は落語の絡まない作品も読んでみたい。おちなしやまなし意味なしでもかまわないから。

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