杉江松恋の新鋭作家ハンティング ヲタク落語家・春風亭吉好のライトノベル『魔王は扇子で蕎麦を食う 落語魔王与太噺』

意外な方向からストライクゾーンに飛び込んでくる、魔球のような小説だ。
春風亭吉好が小説を書いたと聞いて、ああ、あの人なら書くかもしれない、と思った。ファンタジア文庫というライトノベルのレーベルからの刊行からだと知って、らしいな、と感じた。『魔王は扇子で蕎麦を食う 落語魔王与太噺』という題名なのだとわかり、なるほど、と合点した。だって現役のプロ落語家なのだもの。そりゃ、落語小説を書くだろう。
春風亭吉好、落語芸術協会のプロフィールによれば春風亭柳好への入門は2009年、前座となって2013年から二ツ目、2023年に真打昇進とある。この前座、二ツ目、真打という階級は関東における落語や講談特有のもので、関西にはない。今東京には複数の落語団体があって、その中で使われている。もっと知りたい人は『魔王は扇子で蕎麦を食う』の「春風亭吉好の落語解説」というページを読むといい。実際には前座見習いという段階もあることなど、より詳しく書かれている。そういうページがいくつかあるので、本書は落語の知識がまったくない人でもストレスなく読むことができると思う。
そんなことより魔王だ。なんだ落語の魔王って。そう思った人のために急いで序盤の流れを説明しよう。本作の主人公は高校生ながら前座として落語家修行中の浮乃家陽太こと、吉田太陽である。陽太はもともと天才前座として将来を嘱望されていたのだが、あることがきっかけで高座の精彩を欠くようになり、くすぶっている。唯一の気晴らしは、住み込みの内弟子でついている師匠・浮乃家光月の留守中に、パソコンを使ってインターネットの配信をすることである。ハンドルはギル亭魔王、「本来は世界征服が目的だったけれども、落語を滅ぼしたくないから世界征服はせずに落語を広める事にした魔王様」という設定で続けている。
ある日陽太は、配信で師匠・光月の十八番である「死神」を演じた。貧乏で自殺も考えた男が死神と出会い、どんなに瀕死の状態でも病人を治す方法を教わることから始まる噺だ。どうやって治療するのかは省くが、呪文を唱えるのである。
アジャラカモクレン、テケレッツのパ。
陽太がそれを口にした途端、パソコンに異変が起こり、画面から何かが飛びだしてきた。紫がかった黒髪、口には牙、背中には堕天使のような黒い翼という風体の美少女である。彼女は魔族の王、八代目カオスムーンと名乗った。陽太の呪文がたまたま、別の世界にいる魔王を召喚してしまったのである。
先代の魔王様である彼女の母親も出てきて事情を説明してくれる。魔王の母親だからマ魔王様である。マ魔王様は落語ファンであるらしく、精神修養のため娘に落語家の修行をさせてもらいたいというのだ。
陽太が引きあわせると、細かいことを気にしない大人物の浮乃家光月は魔王娘の弟子入りを受け入れた。名前を聞くと八代目カオスムーンだと言うので、前座名は八子である。前座落語家・浮乃家八子の誕生だ。愛称はハチである。
と、ここまでが序盤の展開である。お察しのとおり、陽太の苦労は一段落ではなく、ここから始まる。何しろ落語界どころか、人間の決まりごとすらほとんど知らない魔王様なのだ。本人には悪気などまったくないが、やることなすことがすべて騒動の元になってしまう。落語家前座の大切な仕事の一つに太鼓がある。三味線を弾いてくれるのはお囃子さんと言われる人々だが、太鼓や鉦、笛は前座が担当するのである。案の定、ハチはむちゃくちゃなリズムでそれを叩いてしまう。兄弟子の陽太は平謝りだ。
前座は寄席に入ったらすべての雑用を行う。高座周りだけではなく、お茶出しや演者の着替え手伝いなど、すべてである。そうやってたくさんの先輩方に仕事を言いつけられ、あるいは言われる前に動けるように判断することで、芸人としての呼吸を学んでいくのだ。そこにハチという気遣いのかけらもない少女が放り込まれたら、どういうことになるか。