福尾匠 × 福嶋亮大が語る、21世紀の美学と文学「この300年の企てがそろそろ飽和しつつあるのではないか」

東アジアの歴史には非対称性がある

福尾:福嶋さんが4年前に出された『ハロー、ユーラシア 21世紀「中華」圏の政治思想』(講談社)という本では、グローバリズムについて扱っていました。今回の『世界文学のアーキテクチャ』でも、グローバリゼーション以前の初期グローバリズムを扱っています。19世紀にゲーテが「世界文学」と言いましたが、実はその100~200年前からヨーロッパとヨーロッパの外が接続する文学のあり方はすでに始まっていたと指摘しています。近代文学というと、みんなどうしても19世紀から語ってしまいますが、それだと全然見えてこない問題がある。それより前の近世から語り起こしていく本だと思います。
『ハロー、ユーラシア』に書かれていましたが、中国語では英語のグローバリゼーションは「全球化」という言葉に訳されるそうですね。つまり、全てが「球」になるのがグローバリゼーションだと。そんな西洋的なグローバリゼーションに対して、「道」のグローバリゼーションがあるんじゃないかというテーゼが掲げられていました。『ハロー、ユーラシア』から『世界文学のアーキテクチャ』まで、グローバリズムがテーマにあると思うんですが、その辺りについてどのように考えていますか。
福嶋:ちょっとマクロな話をすると、先日、鈴木隆氏の『習近平研究』の書評を朝日新聞に書きました。それを読むと、習近平が台湾に執着する理由がよくわかります。彼は南方の福建省などで行政に携わっていた政治家で、台湾のエキスパートとして出世してゆく。これまでの中国の指導者と違って、習近平が海洋国家やシーパワーへの志向が強いのもそのためです。ちなみにドナルド・トランプは不動産思考なので、むしろ陸地の人としてガザをリゾート化しろなどと言う。それは、開発という名の収奪にすぎません。
ともかく『習近平研究』によると、まもなく台湾海峡で軍事作戦が起こりうる可能性が高いようですが、その前段として、日本と中国の歩んできた「戦後」の意味が違うんだという話をしている。日本で戦後といえば1945年からでしょう。だけど、習近平からすれば、日清戦争の後に台湾が日本の植民地になった、そこからが「長い戦後」なんです。台湾が中国から分離している限り、この敗戦の屈辱は癒されない。要するに、中国の戦後は日本よりもっと長いわけです。
こういう非対称性が東アジアの歴史にはある。フランシス・フクヤマが『歴史の終わり』で論じたのは、要はグローバル化によって世界史の時計が自由民主主義のもとで一つになったという話です。しかし、実際はそうならなかった。東アジアだけを見ても実は複数の歴史性があり、この非対称性が危機の背景にある。それは地政学的な考えだけでは見えてきません。
福尾:どこからカウントするのかという話ですよね。歴史問題、特に国家間の歴史認識のずれが問題になるとき、どこをスタートとして考えるかによって立場は変わってきます。そこでの多時間的なあり方というのが、フォークナーの小説を通して論じられる『世界文学のアーキテクチャ』の結論でしたね。
福嶋:はい。そこは『ハロー、ユーラシア』と符合しているところです。西側の世界観は、おおむねグローバリズムとマルチカルチュラリズムを前提としていて、世の中の世界文学論もだいたいその流れにあります。しかし、僕の考えでは、世界文学はいわば多文化主義ではなく多時間主義から考えるべきであって、さまざまな時間のギャップの中で小説が生まれてくる。『世界文学のアーキテクチャ』では文学の話をしながら、実際には、東アジアの危機を含めて21世紀の世界像を再考したつもりです。
福尾:なるほど、それはお聞きできてよかったです。この本のアクチュアリティがどこにあるのかを考える上で、すごく大事な論点だと思いました。




















