福尾匠 × 福嶋亮大が語る、21世紀の美学と文学「この300年の企てがそろそろ飽和しつつあるのではないか」

哲学者・福尾匠氏と批評家・福嶋亮大氏が3月にブックファースト新宿店で、各々の著作を語り合うトークショーに登壇した。『非美学――ジル・ドゥルーズの言葉と物』(河出書房新社)で紀伊國屋じんぶん大賞を受賞した福尾氏は、エッセイ集『ひとごと――クリティカル・エッセイズ』(同社)で表現と哲学の関係を実践的に考察した。それに対し福嶋氏は、新著『世界文学のアーキテクチャ』(PLANETS)で「世界文学」の起源について論じるとともに、リアルサウンドでメディア論「メディアが人間である」を連載中である。最新刊の感想を軸に、今の時代の哲学や文学のあり方について語り合った模様を、本記事では抜粋・編集してお届けする。(篠原諄也)
哲学が芸術から触発を受けるとはどういうことなのか

福嶋:福尾さんの『ひとごと』を拝読しました。日本のフランス現代思想というと、哲学をファッショナブルに用いる傾向があるけど、福尾さんはドゥルーズを研究しながら、国家や社会というよりは、いわば「等身大の貧しさ」を核とする実存的な問題に取り組んでいますね。それはよく言えば、哲学を浮ついたファッションにはしないぞという決意であり、悪く言えばちょっと意図的に狭いところに踏み込んでいるような感じもする。ともかく、僕よりも大体10歳年下の福尾さんが、そのような哲学の使い方を編み出さねばならなかったという、その切迫感が一番印象的でした。
福尾:『非美学』と『ひとごと』を同じ美術作品の装丁でセットで出したのは、僕の中で意味のあることでした。『非美学』だけを出すと、たんに重厚な哲学書が出たという感じで終わってしまう。世界や社会について大上段に語る批評家や哲学者というイメージを壊すという、『非美学』のミッションが伝わりにくくなって、本の受け取られ方も狭まってしまいます。そこで『非美学』と比べると軽いエッセイや美術批評などが集まった『ひとごと』を同時期に刊行することで、哲学者や批評家に対するイメージを変えたいと思いました。エッセイは個人的なことを書くというだけではなく、そこには不思議な公共性や社会性があるはずです。エッセイと哲学が相乗効果的に、それぞれの意味合いが変わっていくようなものが作れるといいなという意図がありました。

福嶋:『非美学』は不思議なタイトルですが、美学にあらずということですね。それまでとは違う思考法を発明したいという意志を感じます。そもそも、美学は今から300年近く前にバウムガルテンやカントらによって作られた、比較的新しい学問分野です。美学はひとまず「エステティクス」つまり感性の学だとされる。それまでの哲学は、理性に比べて感性はいい加減なものであり、哲学の課題になりえないと考えてきた。しかし、バウムガルテンたちはこのあやふやで混然としている感性から、新しい哲学を立ち上げてゆく。それによって現実性ならぬ「可能性」とか、あるいは「神経的な刺激への反応」とか、そういう近代的な主体にまつわるテーマが思考可能になる。この点で、美学はとても重大な発明なんです。
加えて、美学はもっぱら消費者というか、観客や受容者の感性に軸足を置くわけです。それは近代社会では、作り手や発信者がマイノリティで、メディアの受容者のほうが圧倒的なマジョリティだということと関係している。しかも、このマジョリティは、たんに動物的な「快」ないし道徳的な「善」を求めるようにプログラミングされているわけではない。美学的な主体とは、動物でもなければ道徳的存在でもない、別のプログラムで動く存在です。近代の哲学はそこに知的な重要性を見出した。
ただ、今回『非美学』というタイトルの本に出会って、この300年の企てがそろそろ飽和しつつあるのではないかと思ったんですね。美学は確かに画期的な発明で、さまざまな感性的なテーマを思想のシステムに組み込んだ。でも、そろそろ、それとは違うモードで考えなければならない。福尾さんはそういう立場から、哲学をもう一度作り直したいのではないですか。
福尾:ありがとうございます。まさか『非美学』が300年のスケールの歴史で評価していただけるとは思ってなかったので、大変光栄です。僕が美学的なもののどこに問題があると思ったのかというと、たしかに感性はあやふやなもので、理性のように四角四面なものではない。その感性に価値を見出して哲学をするというのが美学であるわけですが、実際そこでは理性と感性のあいだの調和的な関係が前提されているんです。感性について論理的に語れることを自認してやっているわけですから。僕が欺瞞を感じていたのはそのことで、感性的なものが本当に他のものに還元できない独自のものであるなら、哲学がそれを論理的な体系に包摂することはできないはずだし、かといって「包摂できなさ」に感じ入っていてもしょうがない。だからこそ、哲学と芸術がまったく別物であるというところから出発して、それでも哲学が芸術から触発を受けるとはどういうことなのかということを考えました。
言い換えれば、感性的なものにこそ真理が宿るのだというロマン主義的な芸術崇拝は、哲学がやるべきことをアウトソーシングしてしまったわけです。世界の真理を表しているのは芸術で、それが表現している無限の何かへの到達不可能性に感じ入るという身振りしかとれなくなった。それはいわゆる「傑作」とそれに打ち砕かれる批評家という20世紀的なモデルに通じるものです。そういうモデルは今となってはちょっと嘘くさい感じがしてきてしまう。芸術から受けた触発が哲学の側での概念創造にリレーされないと、その触発に報いることにはならないはずで、広い意味での職業倫理という観点から哲学がするべきことを考えなおしたかったんです。
洗練された美学よりも、不粋なアルゴリズムが必要

福尾:『世界文学のアーキテクチャ』は、今までの福嶋さんのお仕事の延長線上にある本だと思いました。
福嶋:「文学とアーキテクチャ」とは変な組み合わせだけど、要は文学を文学的に語るのは嫌なんです。一方には文学にまったく価値を認めないテック系の人々がいて、他方には文学を無条件に肯定する文壇の人々がいる。僕としては、両方に違和感があるわけです。前者に対しては、文学なしでどうやってものを考えるんですかと思うし、後者に対しては、文学ばかり読んでどうやってものを考えるんですかと思う。そのひねくれた態度から、文学をテックや知能として読むというスタンスが出てきます。
あと、強く意識したのは夏目漱石の『文学論』です。それこそ「美学的」な趣味や感性をどれだけ鍛えても、本場のヨーロッパ人の文学者には絶対勝てない。だから、漱石はアルゴリズム的な式を作って、それで世界文学を読もうとした。日本のローカリティを超えるには、洗練された美学よりも、不粋なアルゴリズムが必要であることを、僕は漱石から教えられました。それも「非美学」の一つの実践かもしれません。
ちなみに『世界文学のアーキテクチャ』では、オーソライズされた有名な小説が多く出てくるのに対して、福尾さんの『ひとごと』はむしろ「作品未満」の貧しさを引き受ける覚悟で書かれていて、見た目は全然違います。でも、問題意識は意外に遠くないとも思ったんですね。作品が砕け散っていく地点を「ひとごと」として探究するか、砕け散った作品を集めてアーキテクチャ(建築)としての形を与え直すか、そこの戦略は違うけれども、出発点は共通している気もします。ふつうのやり方で作品批評を書いても、今はなかなかうまくいかないですね。
福尾:そうですね、とはいえ僕も作品ならざる身辺雑記みたいなものばかり書いているわけではなく、いわゆる作品批評も『ひとごと』にはたくさん収録されています。しかし僕がそこでやろうとしているのは、あらかじめ作品としてオーソライズされたものを通して社会について語るというより、あるものが作品として立ち上がるときに起こっている、感性的かつ社会的な条件について書くということです。だからこそとりわけ僕にとっては、デュシャンの《泉》から始まって「作品」の条件そのものを扱ってきた現代美術という領域が重要なのだと思います。
文学と非美学的なものの関係で言えば、『世界文学のアーキテクチャ』を読んで、『非美学』は哲学が文学であることをあらためて自覚するための本だったのかもしれないなと思いました。「文学」と言うと小説や詩が思い浮かびますが、もともと英語で “literature”と言えば「読み物」くらいの茫漠とした言葉で、まさに福嶋さんの本ではディドロやルソーといった哲学者のテクストが「世界文学」の文脈で論じられています。『非美学』は哲学を、何か遠大な真理を我が物とするものとしてではなく、「書くこと」という等身大のスケールで捉え返そうとしていて、それはアカデミアと商業主義のあいだで哲学が自身のサイズ感を見失っているいまこそ大切なことだと考えています。