小説をわかってから書くという発想が間違っているーー山下澄人『FICTION』現在形の試み

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 なお、こうした本書の叙述の特徴は、先にも触れた「わたし」の行う(稽古や)「ラボ」と呼ばれるワークショップでの実践と少なからざる共通点を有している。かいつまんで言えば、それは次のような試みだ。まず、主催者の「わたし」が参加者から適当な者を選び、皆の前に立たせる(あるいは座らせる)。「わたし」の「何かしゃべって」という促しにより、その参加者は恐る恐る口を開く。そして、観客はその言動をじっと「見る」。それは自らが台本を作成する際にも「やる前に書くのをやめていた。やりながら書くのだ。紙にというよりはからだに。それに従おう。せりふは役者がその場で作る」と語る「わたし」の流儀に適った手法であるだろう。

  そしてそれは小説という創作の場合も例外でないらしい。本書で「わたし」は言う。「こうじゃなきゃならないなんてことはどこにもない。わかってから書くという発想が間違っている。とにかく書けばいい。やればいい。そしてそれをじっと見ればいい」。すべては、そこに立ってみることから始まるのだ。たとえときに破格すれすれになろうとも「わたし」は、山下は、そこで確かに、とにかく話し、書き続けた。この事実に凄みがある。

 本書が描くのは、ほとんど死屍累々と言うほかない現実の有様であるにもかかわらず、そこには、何かを始めたくなるような、不思議な前向きさが宿っている。「わたし」はこう促す。「まずは誰かが口火を切ろう。誰でもいい。何をするのか誰もわかっていないのだから安心してはじめてみよう」。もし違ったなら、やり直せばいい(そしてそれでも違ったならまたもう一度やり直せばいい)のだから。

  事実、作中で「動かし続けるしかない。書いてみるしかない。書いてみてだめなら書き直せばいいのだ。わたしはこれを書き直している」と明言されるとおり、本作は文芸誌『新潮』に発表されたのち、山下によって「大幅に書き直されて」単行本化されている。本書に書き込まれた言葉により、そしてなにより、自らそれを実行する山下により、励まされる者は少なくないだろう。なにかをやろう、とする者ならば、なおさらである。

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