夏の読書感想文にもオススメ! 異色のスパイ×音楽小説『ラブカは静かに弓を持つ』の輝き

スパイ×音楽小説『ラブカは静かに弓を持つ』

 「ラブカ」は、水深1000メートル近くの深海にいる。サメの仲間で、その見た目から「生きた化石」とも言われているそうだ。世界で一番妊娠期間が長い動物とも言われ、本作の中では「気が遠くなる程に長い間、暗い海の中で息を潜めて、敵方の情報を膨らませ続ける周到なスパイ」の隠語として使われてもいる。本作のタイトル『ラブカは静かに弓を持つ』は、職務のため音楽教室に潜入調査することになった主人公・橘樹が、期せずして発表会の日に演奏することになった、スパイ映画の主題歌『戦慄きのラブカ』に因んだタイトルである。

 『ラブカは静かに弓を持つ』(集英社)は、第25回大藪春彦賞受賞、2023年本屋大賞にノミネートされ、見事第2位に輝いた作品である。著者は、2017年に『天龍院亜希子の日記』でデビューし、青春小説である2作目の『金木犀とメテオラ』も話題を呼んだ安壇美緒。本作は3作目の作品であり、実際に最高裁で判決が出た実在の係争が題材となっている、異色の「スパイ×音楽」小説だ。また、今年は「第69回青少年読書感想文全国コンクール」高等学校の部の課題図書でもあるため、感想文の本選びに悩んでいる高校生にはぜひ、この本をお薦めしたい。

 主人公・橘樹は、27歳。特にこれといった理由があるわけでなく、著作権管理団体「全著連」に就職して数年、平坦な日々を送っていた。幼少期にチェロを習っていたが、ある事件をきっかけにチェロから離れてしまった過去を持ち、そのトラウマゆえに常に人と一線を引き、深く関わらないようにすることで自分を守ってきた。そんな彼が、ある日突然上司に呼び出され、著作権使用料の徴収を巡って裁判を起こそうとしている大手音楽教室への潜入調査を命じられる。ミッションは、チェロを習う生徒を装い、音楽教室が著作権法の演奏権を侵害しているかどうかを調査すること。そもそも長年のトラウマの象徴とも言えるチェロと否が応でも向き合わなければならないというだけで彼は乗り気でなかった。だが、チェロ講師・浅葉桜太郎との出会いが、彼の運命を大きく変えていく。

 とにかく主人公・橘樹が魅力的である。一見映画俳優かと聞かれるほどの整った容姿を持ちながら、内心では周囲を裏切っていることへの罪悪感に常に苛まれ、「深海にいる醜い魚」であるところのラブカに、自分自身を重ねずにはいられない。職務を全うしよう、自分のやっていることは間違っていないと思いながらも、いつか、大切な人たちに自身の裏切りが知られてしまうことにどうしようもなく怯えている。

 そんな姿に重なり合うようにして描かれるのが、期せずして発表会用の曲として浅葉から与えられた(もちろん浅葉は樹の正体を知らない)『戦慄きのラブカ』という楽曲、その元である架空の同名映画の物語である。かつて流行ったというその映画の主人公は、諜報員として異国の郵便局員に扮する男だ。彼は、郵便局員として街の人々と過ごす中で、これまで感じたことのなかった安らぎを見出していく。街に溶け込み、時には人助けもし、時には酒を飲み交わし、生活する中で、自分にもこんな日常が送れたのかと感じずにはいられなかった。映画は悲劇的な結末に終わる。だが「別人として生きている間だけ、その男は満足そうな笑みを浮かべていた」という。その映画の中の孤独なスパイに自分自身を重ねずにはいられない樹。彼の誰にも言えない思いは、チェロの音色となって、彼の内から外へと零れだす。発表会のステージに立つ美しい彼の真実を何も知らない観客たち、そして教師の浅葉と、仲間たちの元へ、音楽が降り注ぐのが、確かに見える。

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