村上春樹による村上春樹のリマスターは成功したのか――『街とその不確かな壁 』評

福嶋亮大の『街とその不確かな壁』評

 もとより「壁で囲まれた街」というイメージが、パンデミックとロックダウンを経た現代世界に向けられた寓話的な信号であることは間違いない。そして、現実にも「イエロー・サブマリンの少年」のように、この都市封鎖と監禁状態をむしろ福音と感じた人々は相当数いただろう。苦しいとも心地よいとも決めがたいこのあいまいな状況を「不確か」と言い表すのは、分からないこともない。しかし、こんなことは言いたくないが「ステイホームも人間嫌いにとっては結構幸せだよね」「でも、いい大人なんだから、そろそろおうちから出なきゃね」程度のことを言うのに六〇〇頁以上もかけるのは馬鹿げている。

 いずれにせよ、本作はそのタイトルに反して「壁」の物語ではない。それは強いて言えば「鏡」の物語に近いだろう。ぼくときみ、幼いぼくと成長した私、図書館長になった私と前図書館長の幽霊、図書館長の私と図書館に入り浸るイエロー・サブマリンの少年……これらのカップルはいずれもお互いを鏡像のように反射しあうので、読者はどちらを向いても主人公に似た本好きで内向的なキャラクターに出会うことになる。このナルシシズム的な鏡のゲームは、部族のなかでお互いの顔を反射しあっている現代のIT社会の肖像にはなり得ているかもしれない。

 ただ、私がいちばん気になったのは、この鏡のゲームに死者すらあっさり含まれてしまうことである。例えば、ガルシア゠マルケスの『コレラの時代の愛』における「溺死した女の亡霊」が登場するエピソードを引用した後、コーヒーショップで働く「彼女」は「私」に次のように語る。

「彼[ガルシア゠マルケス]の語る物語の中では、現実と非現実が、生きているものと死んだものとが、ひとつに入り混じっている」と彼女は言った。「まるで日常的な当たり前の出来事みたいに」
[…]
 私は彼女の隣のスツールに腰を下ろし、言った。
「つまり彼の住む世界にあっては、リアルと非リアルは基本的に隣り合って等価に存在していたし、ガルシア゠マルケスはただそれを率直に記録しただけだ、と」
「ええ、おそらくそういうことじゃないかしら。そして彼の小説のそんなところが私は好きなの」(576‐7頁)

 しかし、このように考えるならば、死者はせいぜい生者に都合よく利用されるだけだろう――この両者は「等価」だというのだから。それにしても、恐るべき内戦とおぞましい虐殺の相次いだコロンビアの作家ガルシア゠マルケスにとって「日常的な当たり前の出来事」がいかなるものであったかを想像するそぶりすらないのは、いったいどういうことなのか。仮にガルシア゠マルケスの世界が「生きているものと死んだものとが、ひとつに入り混じっている」ものだとして、それがスツールに腰を下ろして呑気にネタにできる類のものでないのは明らかである。

 そもそも、村上自身の母胎となった戦後日本の文学にしても、生き残った自分たちと「等価」であるとは到底言えないような、いわば≪死んでも死にきれない戦争の死者たち≫から育ってきたのではなかったか。そう簡単に消化吸収できない死者たちについてどう証言するか――それが大岡昇平を筆頭に、戦後文学者の抱え込んだ難題であった。村上もまた、歴史修正主義(それは死者をイデオロギー的に消化吸収し、政治利用に差し向ける運動である)の跋扈した90年代の『ねじまき鳥クロニクル』でまさにこのテーマに取り組んだ。その時期の村上ならば、生者と死者が「等価」だとは言えなかったはずである。

 だが、『街』で繰り返される鏡のゲームは、生者と死者のあいだの非対称性をすっかり忘れさせる。中年に達した「私」は自らの鏡像たちに取り巻かれながら、イエロー・サブマリンの少年と合一することによって、再び若返り、思い出の少女とめぐり会う――だが、これはせいぜいオカルト的なアンチエイジングの儀式にすぎない。村上が立ち返るべきは、幻想の思春期ではなく、むしろ『世界の終り』や『ねじまき鳥クロニクル』で日本文学の積み残した難題にチャレンジしていた壮年期ではなかっただろうか。

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