村上春樹による村上春樹のリマスターは成功したのか――『街とその不確かな壁 』評
私は村上春樹の小説を比較的熱心に読んできたほうだと思うが、特に2010年前後に出た『1Q84』三部作以後の作品には、毎度首をかしげざるを得なかった。なぜこの小説が書かれねばならなかったのか、その動機やコンセプトが判然としないまま、いかにも村上春樹的なキャラクターが村上春樹的な性愛と村上春樹的な壁抜けをひたすら擦り切れるまで反復するばかり――しかも、文体はかつての弾力性やスピード感を失い、キャラクターも総じて精彩を欠く。宇野常寛もnoteの記事(『街とその不確かな壁』と「老い」の問題ーー村上春樹はなぜ「コミット」しなくなったのか(4月17日追記))で同じようなことを書いているが、私も村上のこの低調な自己模倣モードには耐え難いものを感じていた。
むろん、以前の作品と似ていることが一概に悪いわけではない。例えば、小津安二郎の映画は毎回どれも似たようなキャラクターばかり登場するが、それでも十分面白い。作家とは究極的には二、三の固有のイディオムを、人生を賭けて鍛え上げてゆくしかない人種である。その限られたイディオムが、社会との摩擦を引き起こしたり、社会の変化を先取りしたり、社会の忘れている旋律を思い出させたりするならば、それでいいわけだ。だが、近年の村上の作品からは、いわば生成AIが村上春樹になりすまして書いたような印象を受ける。その結果、彼の小説は社会環境との共鳴を失って硬直し、自家中毒に陥ってしまったのではないか。
さて、今回の『街とその不確かな壁』(以下『街』と表記)については、その執筆動機だけははっきりしている――長らく封印していた初期作品「街と、その不確かな壁」を、長編にリメイクするというのだから。それはいわばアナログ音源の旧作にデジタル・リマスターを施して、その面目を一新しようとする試みである。ただ、この旧作はすでに『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』(1985年/以下『世界の終り』と表記)という村上の代表作の母胎になっている。つまり、失敗した旧旧盤と成功した旧盤がすでにあるのに、わざわざ同じ曲の新盤を録音しようというのが本作の趣旨なのだ。この時点で嫌な予感がするし、実際それが成功したとは言い難い。
そもそも『街』は、批評的にどう評価するかという以前に、単純に技術的なレベルでも問題が多い。とりあえず以下三点あげておこう。
第一の問題は、肝心かなめの「壁」がうまく造形できていないことである。例えば、壁は第一部で急に擬人化されて「おまえたちに壁を抜けることなどできはしない。たとえひとつ壁を抜けられても、その先には別の壁が待ち受けている。何をしたところで結局は同じだ」「好きなだけ遠くまで走るといい[…]私はいつもそこにいる」(174頁/太字は原文)とおごそかに告げる。こうなると壁はまるでチープな漫画のお化けのように感じるが、実のところ、壁は主人公を脅す以上の何かをするわけでもない。村上にとって、恐怖や暴力は最も重要なテーマであったが、本作の壁からそれを感じるのは無理だろう。この怖いようでまったく怖くない壁=システムの内部で、少女にかしずかれながら一人静かに「古い夢」を読むという凡庸なナルシシズムとミニマリズムが、作品を通じてひたすら美化されてゆくのである。
そもそも『世界の終り』では壁に囲まれた心象世界は封鎖されていたが、『街』の閉鎖空間はどうやら心で強く望めば外に出られるようで、日本の首相の警護さながらセキュリティがずいぶん甘いと言わざるを得ない(門衛はいったい何のためにいるのか……)。街の「高い壁」は「住民ではないものが中に入ることを阻止するべく、強固に厳密に機能してきた」と一応書いてあるけれど、それはしょせん見掛け倒しなのだ。こうなると、壁はもはや「壁抜け」されるために存在しているにすぎない――だが、それはそもそも壁と呼べる代物だろうか。
むろん、村上としてはただの壁ではなく「不確かな壁」なるものを描きたかったのだろう。だとしたらなおさら、いわく言い難い「不確かさ」こそを、確かな作家的握力によってつかみとらねばならなかったはずだ。村上はおそらく、壁=システムのもつ父性的な強制力と母性的な甘美さの重なりを「不確か」と呼びたいのだと思うが、この「父母」がともに生成AIの出力した痩せ細ったヴィジョンに見えてしまう、というのが本作の難点である。例えば、デフォーやカミュがペストによる特殊な「監禁状態」を描ききるのに、どれだけ多くの知識と技術を投入したか、村上が知らないはずはない。だが、本作における監禁状態は厳密に説明されることなく、あいまいなほのめかしに終始している。要するに「不確かな壁」の描き方こそが最も不確かなのである。
第二の問題は、主要なモチーフに深く付きあわず、あっさり放り出してしまっていることである。例えば、第二部では「福島県Z**町」なる田舎街の図書館が舞台になり、もう一方の「壁で囲まれた街」は「魂にとっての疫病」から自らを隔離したことが明かされる。わざわざこのようなことを書くからには、『街』は震災や原発事故やパンデミックを背景とする物語なのだろうと、誰しも想像するだろう。「魂」や「疫病」という重々しい言葉を、しかも傍点入りで書きつけてしまったからには(そのことの良し悪しは脇におくとして)、とにかくそれらの言葉を作中で機能させねばならない。それが物語作家の責任というものである。
しかし、これらの言葉はすべて思わせぶりな記号にとどまっている。驚くべきことに「福島県」を選んだことが何を意味するのか、「魂にとっての疫病」とは何なのか、その具体的な記述はほとんどなく、あとは読者が勝手に想像してくれと言わんばかりである。さすがにこれはひどい怠慢ではないだろうか。むろん、村上は疫病にリアリズム的な具体性を与えたいのではなく、いわばパンデミックの起こるような世界を寓話化・抽象化したいのだろうが、それならそれで、むしろ寓話としての疫病を厳密に描かねばならない。
そのような厳密さが欠如しているために、本作は「疫病の因子を締め出して街を正常に保ち続ける「夢読み」の作業に――つまり壁=システムの側に――なぜか主人公たちが加担し続ける」という意味不明のストーリーになってしまった。かつて村上はイスラエル(当時パレスチナのガザ地区を侵攻していた)のエルサレム賞の受賞スピーチで「壁と卵」の比喩を出して、自分は壁にぶつかって割れる卵の側に立つと宣言した。しかし、本作における夢読みの作業は、疫病的な不穏分子(いわば卵)をなだめて世界をノーマライズする「壁」のシステムにあいまいに加担しているとしか読めない(※1)。「卵」の側に立つという宣言は、いったいどこにいったのか……(そもそも、システムに圧迫される卵という隠喩そのものが素朴すぎるのだが)。というより、本作ではシステムとしての「壁」はもはや壁ではないので、それを脅かす「疫病」も「卵」も実は描きようがない。要するに、『街』は不明瞭な隠喩を乱用しすぎたせいで、何もかもあいまいにしてしまい、結局何を伝えないのかまるで分からない小説になってしまったのである。
第三の問題は、(これはここ最近の村上の小説全般に言えることだが)キャラクターの動きが総じて事務的・機械的になってしまったことである。特に、後半を過ぎて急に現れるサヴァン症候群と目される「イエロー・サブマリンの少年」が、なぜかその後の物語の主導権を握るのだが、そのように進めるのならば、ふつうはもうちょっと前から伏線を張るべきだろう。
だが、それ以上に問題なのは、この物語のキーパーソンにされてしまった少年の描き方――どれだけ分厚い本も一目で記憶してしまう天才児で、しかし社交性を欠いている――が、サヴァン症候群についての通俗的なイメージから一歩も外に出ないことである。少なくとも、『世界の終り』のときの村上は、この手の症例名一つで横着にレッテル張りすることを避けるためにこそ、技術を尽くして、自身の小説のなかにしか存在しないミステリアスでエキセントリックなキャラクターたちを造形していたはずである(※2)。当時の村上ならば、実在する(しかも既存のフィクションですでに何度も題材にされてきた)症例のイメージに寄りかかるのは、作家としての敗北だと考えただろう。この一点だけをとっても、旧盤と新盤とでは比較にならないと言わざるを得ない。
(※1)いちおう参考になる個所を引用しておこう。「それら[封印された夢]が何かの拍子に力をつけ、一斉に殻を破って外に飛び出してくること――それが街にとって潜在的な恐怖になっているのではないでしょうか。[…]だからこそそれらの力を少しでも鎮めて解消しておきたいんです。誰かが古い夢たちの声に耳を傾け、見る夢を一緒に見てやることで、その潜在熱量が宥められる――彼らはおそらくそれを求めているのでしょう」(150頁)。
強いて言えば、この「古い夢」こそが「卵」なのだろうが、そうだとしたら、夢読み――村上にとっては小説家そのものの寓意でもある――は壊れやすい夢=卵の声を聞き取り、その不満をガス抜きしながら、結局は壁=システムの動作を守っていることになる。なるほど、今の村上春樹の境遇を考えれば、村上本人が自分の生み出した不確かな壁=システムに囚われているという自己認識は、まったく間違っていない。しかし、それを問わず語りに認めてどうしたいのか。私にはよく分からない。
(※2)村上のもう一つの特徴は「日常のありそうもなさ」を物語の資源としたことである。例えば、なぜかリアルサウンドというウェブサイトがある日設立され、なぜか私がそこで村上の書評をし、なぜかそれを今あなたが読んでいるという、この一連の出来事がつながることは、ほとんどありそうもないことに思える。しかし、世界とはこのありそうもないことの集積なのだ。サヴァン症候群の少年や図書館長の亡霊よりも、世界そのもののほうがありそうもない――過去の村上の小説はそのような感覚に根ざしていた。