明治時代を舞台に描かれる、海賊と海軍の衝突ーー薬丸岳が新境地を拓いた『蒼色の大地』
作者名を伏せた状態で『蒼色の大地』という小説を読んだ場合、作者が薬丸岳だと当てられる読者はほぼいないのではないだろうか。私も予備知識がなければ、絶対に当てられなかっただろう。
薬丸岳といえば、少年犯罪をテーマにした『天使のナイフ』で江戸川乱歩賞を受賞してデビューした後、一貫して社会的テーマを掘り下げた現代ミステリを書き続けてきた。そんな中、2020年に単行本として上梓され、2022年に文庫化された『蒼色の大地』は、舞台が現代ではなく、しかもミステリでもないという点で異彩を放っている。
薬丸個人の着想からは、なかなかこういう物語は生まれにくかったかも知れない。実は本書は、〈螺旋プロジェクト〉という合作企画のうちの一冊なのである。参加者は薬丸のほか、朝井リョウ、天野純希、伊坂幸太郎、乾ルカ、大森兄弟、澤田瞳子、吉田篤弘の8作家9人。伊坂の呼びかけで立ち上がったこのプロジェクトは、海族と山族の対立を描く、共通のキャラクターを登場させる、共通シーンや象徴モチーフを出す……という三つのルールに従い、原始時代から未来に至る壮大な歴史を描くことを主眼としている(ただしリレー小説ではなく、同時並行執筆による競作というのがみそだ)。小説を書くというのは基本的に自分独りで作品世界や登場人物を生み出さなければならない孤独な作業だが、他の作家と世界や人物を共有しながら執筆するスタイルは、参加作家たちにとって新鮮な経験だったに違いない。
このプロジェクトで、薬丸が選んだ背景は明治時代。大日本帝国海軍最大の鎮守府だった呉鎮守府が明治23年(1890年)に開庁して間もない頃の話である。主人公は、同じ村で育った灯(あかし)、新太郎、鈴という三人。灯は蒼い目の持ち主だったため幼い頃から青鬼と呼ばれ、村人たちから忌み嫌われ、彼を育てていた爺ともども村八分の目に遭わされていた。爺の死をきっかけに村を出た灯は、青鬼と呼ばれる者たちが唯一平穏に暮らせる鬼仙島という場所が瀬戸内海にあると聞いて、その地へと向かう。彼はそこで、島とそこに暮らす人々を守るために海賊行為を繰り広げる「鯨」という集団に加わる。
そんな灯が、黒い目を持つ村人たちの中で唯一反撥を覚えず、むしろ惹かれた相手が鈴だった。新太郎と鈴は兄妹で、新太郎は村を襲撃した盗賊から母を守れなかった父を憎み、父の死後は鈴を連れて村を出る。横浜で料理人の見習いをしていた新太郎は、山神という海軍の軍人に見込まれ、「海軍に入ればきっとすべての憎しみを晴らすことができるだろう」という誘いに乗る。かつて、溺れていたところを灯に助けられたことがある鈴は、その灯に会ってお礼を伝えるため、男装して単身で鬼仙島へと向かった……。
〈螺旋プロジェクト〉のうち、前巻(天野純希『もののふの国』)までは歴史上実在の人物が登場することが多かったけれども、本書は純然たるフィクションとなっている(ただし、前巻のキャラクターが引き続き登場している)。武士の時代は終わり、文明開化の世が到来したものの、差別も争いもなくなる様子は全くない。
シリーズを通じて描かれるのが海族と山族の対立である以上、灯と新太郎・鈴兄妹とは争いを宿命づけられた間柄だが、海賊として人の死に少しずつ慣れてゆく灯にしても、国を守るため海軍に身を置いて立身出世を夢見る新太郎にしても、もともとは争いを好まない性質であり、殺し合いをなるべく避けようと考える。性格的には最も直情径行型なのが鈴で、思い立った時の彼女の行動は無謀な印象さえある。この三人が、お互いを不倶戴天の敵と見なして憎悪に囚われた他の同族の中で、いかにして争いを止めるかが物語の読みどころとなっている。海族と山族の対立が、それぞれの率いる海賊対海軍という巨大暴力装置同士の激突へと発展し、英国をも巻き込んだ大戦争が巻き起ころうとする中、果たして彼らは運命に抗い、理解し合うことはできるのだろうか。