元記者・堂場瞬一が「小さき王たち」シリーズで描く、政治家と新聞記者の昔と今
政治家と新聞記者。昔だったらやってみたい仕事の上位に来ていたものが、今は政治家はなるのも続けるのも普通の人では大変そうといった印象が強く、新聞記者も欠点ばかり暴いて叩くだけの存在と見なされ志望者が減っている。元記者の堂場瞬一が三部作で描く小説「小さき王たち」は、昭和から平成、そして令和へと移る時代の政治家と新聞記者との戦いがつづられ、そうした仕事への憧れと絶望を合わせ感じさせてくれるシリーズだ。
官房長官の記者会見で、記者たちが机の上にノートPCを置いて、官房長官の言葉を打ち込んでいる様子がテレビに映る。昔はノートにメモをして、そこから言葉を拾って原稿用紙に記事を手書きしていた。今はPCに打ち込んだメモから記事を作り、新聞社の記事編集システムにオンラインで入稿。以後の編集や割り付けなどもコンピュータ上で行われる。
ネットにつながるPCさえあれば、どこにいても記事を書いて送稿できる環境が整って四半世紀くらい経った今、PCもネットもなかった時代に新聞記者がどこで原稿を書き、どうやって送っていたのかを知らない人がほとんどだろう。堂場瞬一の『小さき王たち 第一部 濁流』には、昭和46年(1971年)から47年にかけての新聞記者の働き方が、政治家の不正をめぐる事件を巡るストーリーの中に描かれる。
幼馴染みで友人だった高樹治郎と田岡総司が、大学を出て再会したのは新潟の地。高樹は全国紙の東日新聞に入り、新潟支局で県政を担当していた。総司は商社勤務を経て、新潟一区選出の衆議院議員で民自党政調会長という役職にある父親の秘書となっていた。
そして迎えた総選挙。民自党は新潟一区にもうひとり候補者を立てることになり、総司は勝てそうな父親ではなく新しい候補者の選挙を手伝うことになるが、そこに未公認でもうひとりが立候補を表明。総司が手伝う候補者の当選が危ぶまれる。
そこで総司が始めたのが買収工作。県議から自治体トップのから地元企業トップまでを相手に支援を求めるやりとりが、当時の選挙にいかにもありそうで生々しい。一方で、治郎は選挙で買収工作が行われているというネタを掴み、夜回りして警察官らを相手にネタが本当かどうかを詰めていく。
スマートフォンなどない時代。出かけてしまえば急な取材の命令が飛んでくることもなく、取材に専念できるしサボることだって可能な新聞記者の自由さに憧れが浮かぶ。政治家の不正を暴き、世界を住みよくするのだという正義感を、新聞記者も警察官も共に抱いて仕事に打ち込んでいる部分も良い。同じ仕事が今もできるなら、新聞記者も悪くないと思わせてくれる。
一方で政治家の方はといえば、選挙となれば投票の依頼に走り回り、摘発される恐れを抱きながら買収工作も行わなくてはいけない大変さが滲む。それでも、国のためであり国民のために働けるといった思いがあれば、何としてでもなりたい職業。そのための道筋を『第一部 濁流』が見せてくれている。
不正を糺そうとする新聞記者がいて、不正に手を染める政治家がいれば幼馴染みでも対決は必至。そして起こった激突から25年後を描くのが、7月20日に刊行された続編『小さき王たち 第二部 泥流』だ。治郎は東日新聞東京本社の社会部長になり、総司は父親の地盤を継いで衆議院議員となって民自党の選対部長代理を務めている。
ここで再び新聞記者対政治家の対決が繰り広げられる。治郎の息子の和希は東日新聞の記者となって新潟支局に赴任。そこで、政治家が選挙資金を不正に集めたのではないかといった疑惑を告発する電話を受ける。スクープを飛ばして出世したいという功名心もあって取材を始める和希だったが、その裏には総司による企みがあるようだった。
総司が告発者との連絡役に使ったのが、私設秘書をしている息子の稔。25年前の一件で完全に仲違いをした総司と治郎の再戦が、四半世紀経ってそれぞれの息子たちも巻き込んで繰り広げられる構図が面白い。新聞記者なり政治家といった仕事にそれぞれが情熱を持っていた治郎や総司の代とは変わって、父親を追うように報道なり政治の世界に飛び込んだ和希や稔の仕事に対するどこか他人事のような意識が、それぞれの世界がその後に辿る停滞を表しているようでもある。
だからこそ、さらに25年後の2021年が舞台になる『小さき王たち 第三部 激流』(10月刊行予定)が気になる。総司と治郎の孫たちが登場するらしいが、それぞれがどのような立場になっているのか、それ以前に総司や治郎や和希や稔がどうなっているのかを想像するだけで楽しくなる。