「SFマガジン」91年生まれの新編集長・溝口力丸が語る、伝統への挑戦「手の届かない遠さまで未来を求めようとする姿勢が大事」

「SFマガジン」編集長インタビュー

 昨年12月、溝口力丸氏が「SFマガジン」編集長に就任した。溝口氏は、担当した同誌の百合特集や伴名練『なめらかな世界と、その敵』をヒットさせるなど、SFに新風を吹きこんできた。その編集者としての歩みと「SFマガジン」の未来について聞いた。(円堂都司昭/3月9日取材・構成)

面接で伊藤計劃をアニメ化すべきだと力説

溝口力丸氏
『SFマガジン 2022年 4月号』

――出版界に入る前の読書傾向は。

溝口:大学では都甲幸治先生に現代アメリカ文学を教わり、トマス・ピンチョン、リディア・デイヴィス、ジョナサン・フランゼンなどを読んでいました。また、小学生の頃からエッセイが好きだったので、さくらももこから入って遠藤周作、北杜夫、佐藤愛子、内田百閒。現在との接点をあげるなら筒井康隆、小松左京もけっこうエッセイを書いていたし、星新一のショートショートはみんな読んでいましたから、そこらへんがSFとのファーストコンタクトでした。星新一訳のフレドリック・ブラウンの短編集になるほどーと思ったりしましたけど、当時はSFとショートショートを混同していたフシもある。カート・ヴォネガットも作品と同じくらいエッセイが好きですね。

――その頃から出版に携わりたいと望んでいたんですか。

溝口:いえまったく。よくする話ですが、就活で早川書房を受けたのは、『ファイト・クラブ』原作者のチャック・パラニュークの作品群がなぜ絶版なのか、面接の場なら社長に話を聞けるだろうというつもりで行ったんです。その話題作りのために復刊企画書を出したら面接がどんどん進んで採用され、「SFマガジン」配属になりました。当時の人事部長が、塩澤快浩(「SFマガジン」前編集長)でした。

 私(1991年生まれ)が就活する頃は、サイトに登録して項目を入力すると、あなたに適した会社はここです、ポーン! とスロットを回すみたいな演出とともに受けるべき企業が500社くらい出てくるシステム化されまくったディストピアになっていました。真面目にやると発狂しそうだったので、就活のノウハウなどをほぼ調べずに受けたんです。社会性がなさすぎたのが幸いしました。とはいえ小説の話以外でこれができたとは思えませんから、早川書房が文芸中心の出版社でちょうどよかったのかもしれません。

――入社後は。

溝口:採用が決まったのが2013年6月頃。塩澤に夏休みから来れるかといわれ、アルバイトの形で「SFマガジン」をお手伝いしました。当時の編集部は塩澤含め三人体制で後に劉慈欣『三体』を担当した梅田麻莉絵もいて、その下働きで対談の文字起こし、書籍リスト作成などをしました。入社するといったん配属先未定となるので、翌年4月から3ヵ月は研修を受け、6月からあらためて「SFマガジン」配属に。アーカイブ特集だった創刊700号記念特大号の次の701号(2014年8月号)からです。それは『PSYCHO-PASS』特集でしたが、偶然、大学が一緒だった吉上亮さんの同誌初登場でもあって思い出深いです。あの頃から「SFマガジン」がアニメーションとのコラボ特集をやるようになりました。もちろん伊藤計劃『虐殺器官』のアニメ化が控えていたことが背景にあったのでしょうが、メディアミックス系の企画が増える頃から入ったんだなと今になって感じます。

――そのアニメ化と連動しての伊藤計劃特集だった2015年10月号の編集後記で溝口さんは、それが「SFマガジン」で初めて担当した特集だったと書いていたほか、就活面接時に『ハーモニー』アニメ化への妄想を語っていたと回想していました。

溝口:特別な作家でしたね、伊藤計劃は。『ハーモニー』は単行本で知りましたが、デビュー作『虐殺器官』は真っ黒の表紙で文庫化された時(2010年)に読みました。どちらももう亡くなった後でしたね。当時は読者目線でしたが、業界全体に伊藤計劃の影響が強く残っていて、この作家をどう継承し、彼に次ぐ才能をどう見出すかを多くの方々が考えていた印象でした。それが2012年からのハヤカワSFコンテストにつながったのでしょう。「伊藤計劃以後」(「SFマガジン」2011年7月号の特集タイトル)の言葉も本当に切実なものだったんです。

 そうしたなか、すでに裏でアニメ化の話が進んでいるとも知らず、2013年の面接で伊藤計劃をアニメ化すべきだと力説し(笑)、早川で半年近くバイトしていた間も一連の劇場アニメ化計画にまったく気づかないままだった(笑)。社員になる前の3月にカナダへ旅行したんです。今でも覚えていますけど、オーロラを見てイエローナイフ空港へ帰ってきたらWi-Fiがつながり、ツイッターを覗くと伊藤計劃のアニメプロジェクト開始とあって、なんで気づかなかったんだ! とマイナス10度くらいの屋外で転げまわりました。

 2015年に新たな伊藤計劃特集を担当してくれといわれた時、もう亡くなった作家なので新原稿はないし、どうしたものかと悶絶し、その果にあの編集後記を書いたんでしょう。結局、影響を示すことしかできないから作品推薦の企画や鼎談でまとめました。お盆休みの誰もいない編集部で、集まった原稿に胸が震えたのを覚えています。

議論になった本のほうが売れたりするから悩ましい

――「SFマガジン」2019年2月号で担当した百合特集の成功で、溝口力丸という編集者への注目度が高まったわけですが、それ以前の仕事で印象に残っているものは。

『SFマガジン 2022年 4月号』

溝口:既存のものを崩せた時がやり応えがあるし、自分がいた意味があったと思うことが多いです。一番下っ端だったから焦りはあって、ある意味自由だとも思っていました。なにか問題があったら、自分が切られればいい。よくない考え方ですけど。伝統を崩したいと思って最初にやったのは、フィリップ・K・ディック特集(2014年10月号、特集「いまこそ、PKD。」)。塩澤から「PKD総選挙をしてください」と言葉だけ与えられて、なにそれ? と頭抱えたんですけど、明らかにAKB総選挙にかぶせたアイデア。今より自由度が高く面白みがあったツイッターを使って、好きなPKD作品をあげてくださいという読者参加型企画をしました。それで、大森望さんからディックを推すアイドルがいると聞いて会った西田藍さんを、私の提案で表紙に起用した。「SFマガジン」の表紙に写真を使ったのはそれが初めてじゃないかな。アイドル雑誌みたいな表紙になって、内容の面白さとパッケージの面白さが噛みあったと思います。伊藤計劃特集の時は、表紙の絵を本の背まで入れることを初めてやりました。担当号で装幀は常に気にかけています。

――2020年に塩澤快浩前編集長にインタビューした際、溝口さんについて、コミック、ゲーム、アニメを小説と同じように普通に摂取してアウトプットしていると話していました。そうしたことは意識していますか。(参考:『SFマガジン』編集長・塩澤快浩が語る、SFが多様性を獲得するまで 「生き延びることしか考えてきませんでした」

溝口:今は多くの人に届けるため、共通言語としてキャラクターは必要だと思っています。私自身は『虐殺器官』の水戸部功さんの真っ黒な表紙とか、ある時期のハヤカワ文庫の硬派なデザインが大好きです。ただ、それだけでは届かない読者もいる。自分が作家を担当するようになり、柴田勝家さんの『ニルヤの島』を文庫化する時、社内で装幀の方向性に何度もダメ出しされ苦戦しました。ものすごく悩んで、最終的にsyo5さんのキャラクターをデザインした表紙にしたら重版がかかった。この体験は自分にとって大きいです。ライトノベルやキャラクター文芸が幅広く浸透して、キャラ絵を忌避する価値観も最近はあまりないし、書店では棚を問わずそういう本が普通に平積みされています。SFはハードルが高いといわれがちなのでそれをどう下げるか、考えなければならない。Vtuberの流行をみても若い人のキャラ絵への抵抗感はもうあまりないでしょうが、ただ苦手な方がいるのは事実だし、そればかりに偏らないよう気をつける必要はあります。

――SNSで議論になりがちなことですね。

溝口:議論になった本のほうが売れたりするから悩ましい。おとなしめの装幀だけど内容は面白い作品だってたくさん出ているのですが、キャラ絵の苦手な方に読んでほしい、と思っていても届いていないことがよくあります。まず気づいてもらうことが最低条件で、そのための道筋はいずれにせよ必要なのだろうなと。

――「SFマガジン」と並行してやってきた書籍の編集については。

チャック・パラニューク『ファイト・クラブ〔新版〕』

溝口:それこそ最初にやったのが、パラニューク『ファイト・クラブ』で2015年4月。ほかに『ハヤカワ文庫SF総解説2000』など「SFマガジン」の企画の書籍化、国内作家では最初に担当を引き継いで出したのが柴田勝家さんの『クロニスタ』。また、私の入社と同時期にSFコンテストが始まったので、その新人作家を担当することが多くて、草野原々さんの『最後にして最初のアイドル』もそうです。

――「SFマガジン」2020年8月号で「SF第七世代」特集がありましたが、担当作家は若い世代が多かったようですね。

溝口:私が入社した頃は20代、30代のSF作家が視界に入るところにあまりいない感じでしたが、だんだん先ほどの柴田さん・草野さんや、伴名練さん、麦原遼さんなど近い世代の方が増えていきました。いまは世代も幅広く、50名ほど担当しています。

――そして昨年12月、編集長になったわけですが、どう知らされたんですか。

溝口:昨年の春、BL特集をやるとツイートした時があったんです。経緯は省略しますが、「SFマガジン」でBLの読者に喜んでもらえる特集をします、とつぶやいたら、ものすごく拡散した。事前に編集長の許可をとっていなかったので、怒られるかな……と思いつつすぐにBL特集の企画書をまとめて、塩澤に提出しました。そうしたら編集部にほとんど人の残っていない夜、塩澤から呼び出されたんです。この流れなので当然BLの話だろうと思ったら、「実は編集長を辞めようと思っている。次は君にやってもらいたいのだが、どうか」といきなり話し始めた。BL特集はどうなったんだと思いましたけど(笑)、それについては「ああやって特集をやると宣言したからには、それまでは早川書房も辞めないだろうと思って、今のうちに伝えました」と。やられた!と思いました(笑)。そうして辞令を受けたんですが、それならBL特集も編集長就任後のほうがいいし、アイデンティティでもあるパラニュークの復刊企画書も出して、いろいろ連動させて後悔のないように働こうと。去年の春からずっと準備していました。

関連記事

インタビュー

もっとみる

Pick Up!

「名物編集者」の最新記事

もっとみる

blueprint book store

もっとみる