「オール讀物」編集長・川田未穂が語る、体育会系編集者の仕事術 「文芸編集者は作家にとってのコーチ」

「オール讀物」編集長インタビュー

 2021年に創刊90周年を迎えたエンタテインメント系小説誌の老舗「オール讀物」。同誌編集長は年2回開催される直木賞の選考会で司会を務めるが、女性で初めて担当したのは、昨年9月に編集長に就任した川田未穂氏である。オール讀物新人賞をオール讀物歴史時代小説新人賞にリニューアルし、本屋が選ぶ大人の恋愛小説大賞を創設するといった策を打ち出した川田氏に、スポーツに没頭した学生時代と文芸編集者としての現在がどのように結びついているのか、話を聞いた。(円堂都司昭/11月29日取材)

バスケットの朝練をしてから会社へ

――出版界を目指した大学生の頃に興味を持っていたことはなんですか。

川田:出版界を目指してはいなかったんです。早稲田大学の人間科学部スポーツ学科という、ガチでスポーツをやるところの出身で、体育会バスケットボール部に選手として所属していました。日本代表になるのは狭き門ですが、リーマンショック前は勤めながらバスケットをやれる実業団がけっこうありましたし、体育教員としてバスケットに携わるという選択肢もありましたから。子どもの頃は本好きでしたけど、大学では休日も朝から晩までの練習で疲れ果てて本も読めず。それならなぜ出版社に入ったんだって話ですよね。

――きっかけの話がいつ出てくるのかと(笑)。

川田:2年生の時、膝の靭帯の大怪我で1年間、バスケットができなかったんです。そのうち優秀な下級生が入ってくるし、バスケットの道が駄目なら体育の先生の資格をとろうとしたけど、4年生の時にも膝の故障して教育実習に行けませんでした。実は他のスポーツができなかったのが、教員をあきらめた理由としては大きいんですけど。では、どうするか。人に会う仕事がいい、新聞記者がいいと思ったんです。文章を書くことは子どもの頃から得意でしたし、ゼミでフィールドワークに出て話を聞いてレポートにまとめるのも好きでした。それで新聞社を受けたら一次の筆記にまったく受からない。テレビも見る時間もなかったから一般教養が難しくて、「細川護熙内閣とはなんだったのか」という作文の問題が出て、知るわけないよって(笑)。新聞社と似たものだろうと思って出版社を受けたら受かりました。

――そうですか(リアクションに困っている)。1995年入社ですよね。最初の配属先は。

川田:「週刊文春」です。

――大変な年だったじゃないですか。

川田:1月に阪神・淡路大震災、3月にはオウム真理教の地下鉄サリン事件ですから「週刊文春」は大変でした。あと、私の卒業旅行の間に「マルコポーロ」事件(文藝春秋発行の同誌のホロコースト否定記事が批判され1995年休刊)があって、社長が交代し雑誌がなくなり、この会社は大丈夫かと入社前からすでに心配でした。

「週刊文春」で最初は小説やコラム、書評、作家インタビューなどを担当する部署にいました。林真理子さんが『不機嫌な果実』を連載されていて、藤原伊織さんが『テロリストのパラソル』、馳星周さんが『不夜城』でデビューするなど、文芸に活気がある時代でそれらをシャワーのように浴びました。最低限の常識にも欠けていたので失敗も多く、新人は目次を作るんですが、阿川佐和子さんと落語の柳家小さん師匠の対談では、この人だけ「さん」と敬称がつくのは変だと削ってしまって! 「さん」も名前だと知らなかったんです。ただ、ワープロは扱えたので口頭で原稿を打ちこんだり、恒例「週刊文春ミステリーベスト10」に順位を簡単に計算できるエクセルを導入して「すげー」といわれたり(笑)。

――次に移った部署が……。

『Sports Graphic Number 2022/01/07(1042)号』

川田:「Number」。スポーツ雑誌でよかっただろうと誤解されますが、バスケット以外のスポーツはほとんど最初はわからなかったのです。でも、いい時期でした。1998年に日本はフランスのサッカーワールドカップに初出場、長野で冬季オリンピックを開催し「Number」は飛ぶように売れました。2002年の日韓ワールドカップも決まって行け行けどんどん。この雑誌で、スポーツの土台はみな同じとわかりました。早稲田つながりも活かせた。ラグビーの早明戦に人気があった頃で両主将をユニホーム姿で撮影したことも。当時はアマチュアイズムが強く試合中の写真しか使えなかったところを、監督や協会を説得し初めて撮影を実現しました。私が常識を知らなかったからできたんでしょう。まだ高校生だった水泳の北島康介選手や、フィギュアスケートの高橋大輔選手、五輪世代の中村俊輔選手、宮本恒靖選手をはじめ、海外の金メダリストも含めて沢山の有名選手をかなりインタビューできて、オリンピックは2000年のシドニーと2002年のソルトレイクに行かせてもらいました。

――入社してまず雑誌編集に携わったわけですが、入社前に雑誌は読んでいましたか。

川田:読んでいませんでした。情報誌はべつとして、雑誌を読むのは基本的に大人の文化です。私はファッションもメイクも興味なくて「バスケットボールマガジン」くらいしか読まず。それでよく雑誌を編集しましたよね。ただ、中学生の頃は本を異常に読む子だったんです。3年間で100冊読もう運動とかあったんですけど、卒業までに軽々500冊くらい読んだ。パール・バックの『大地』やマーガレット・ミッチェルの『風と共に去りぬ』など海外文学に夢中になりました。高校では三島由紀夫、谷崎潤一郎、安部公房、松本清張、永井路子、W村上……植村直己や妹尾河童の旅行記なんかも片っ端から読んでいたんですが、大学4年間だけがすぽっと抜けている。

――どの段階で文芸に移ったんですか。

川田:2003年に純文学の第一文芸部へ異動となり、まじか、と驚きました。「Number」では馳星周さんのサッカー観戦記、東野圭吾さんとスキージャンプの原田雅彦選手の対談などエンタメ小説の世界と馴染みがありましたけど、純文学だなんてどうしよう。雑誌は部数や何ページ使えるかなど決まった部分が多いけど、書籍は内容も文字組も一から設計だから、まいったねこりゃという世界。芥川賞作品を読んでも、わからん、となったり。

――芥川賞のお膝元の出版社なのに。

川田:芥川賞の純文学が万人に面白いかというとそんなことはないと個人的に思います。エンタメ系の直木賞は誰が読んでも大丈夫ですけど、芥川賞は村田沙耶香さんの『コンビニ人間』、又吉直樹さんの『火花』のように誰が読んでも面白いものもある一方、読者を選ぶ作品もある。実験的なことに価値があり、作り手に高い技術を要求するのが純文学です。その反動で「Number」の時はスポーツって土日に試合があるし休めなかったんですが、純文学の部署は年間6冊作るくらいのゆったりペースで土日は使える。だから、またバスケットを始めたんです。

――え?

モブ・ノリオ『介護入門』

川田:バスケ部顧問の先生と知りあって中学生を教え始め、協会公認コーチの資格をとり、体育教員資格も改めて取ろうと大学に聴講生として通いました。それでも私は芥川賞受賞作を1作だけ担当していて、それがモブ・ノリオさんの『介護入門』(2004年)。綿矢りささん、金原ひとみさんが受賞した直後で、その後の芥川賞受賞者は阿部和重さん、中村文則さん、絲山秋子さんと純文学が活気づいた時期でした。『介護入門』のラップ調は今読んでも面白いですし、松浦寿輝さんの読売文学賞作『半島』、俵万智さんの紫式部文学賞受賞作『愛する源氏物語』も担当して、仕事しなかったわけではないですが(笑)、わずか2年でカルチャー誌の「TITLE」へ異動し。そこでもバスケットの朝練をしてから会社へ行っていました。

――すごい生活……。

川田:カルチャー誌の仕事は12時すぎないと相手のアポをとれないし、朝から取材なんて絶対ないから大丈夫——なはずがなくて、「TITLE」では他社から転職された浜口重乃編集長が「文藝春秋の人間は雑誌作りができない」と嘆かれました。ビジュアル、リード、見出しをどうすればいいのか、私はそれまで雑誌を7年やったのにわかっていなくて、雑誌をどう作るかは浜口編集長から習いました。3年いた「TITLE」ではレストランやスイーツ全般、ミステリーや時代小説の特集、村上春樹さんと吉本由美さんの対談『するめ映画館』も担当しましたが、休刊になってしまった。

 その時、1回は一般文芸をやってみたい、「オール讀物」はどうですかと自ら志願して配属されたのが35歳の時。いきなり宮城谷昌光先生、津本陽先生の担当で、どっひゃーとなりましたけど、ベテランの男性作家はだいたい競馬か野球か相撲の話をすればなんとかなりますし、知識は「Number」で仕入れてますから。直木賞を受賞された作家さんが多く完成された原稿がくるので、これが違いますとかアイデア出しより、いただいた原稿をどう誌面化していくかという仕事が多い。それ以来「オール讀物」には、エンタメの出版部を一度はさんで在籍計13年くらいになります。ジョブローテーションが活発な会社なので、編集部にこれだけ長くいる人間はいないですね。もちろん、池波正太郎さんの特集でさだまさしさんにインタビューするから、あと1週間で『鬼平犯科帳』24巻を読まなきゃいけないとか、司馬遼太郎さんの長編を一気に読まなきゃいけなかったり、1000本ノックみたいな読書は大変でした。

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