「新潮」編集長・矢野優が語る、文学の多様性 「100年後まで読まれる大傑作を載せたいと常に願っている」

「新潮」編集長が語る、文学の多様性

 純文学をあつかう5大文芸誌のうち、1904年(明治37年)創刊で117年の歴史を持ち一番の老舗なのが、新潮社の「新潮」である。編集長の矢野優氏は、2003年から18年間この役職に着いており、現在の文芸誌編集長のなかで最も在任期間が長い。1989年の入社以前から各種のカルチャーに浸かっていた矢野氏に、文芸とどう向きあってきたか、「新潮」の目指すものなどについて聞いた。(6月3日取材/円堂都司昭)

浅田彰との出会いが人生を変えた

――1989年に新潮社へ入社する以前はどんなジャンルに興味を持っていましたか。

矢野:思春期は、9:1くらいで小説より音楽でした。なんでも聴きますが、YMOに直撃された世代なので、電子音楽は途切れず聴いています。作っていた時期もあります。小説は、小学校で筒井康隆さん、北杜夫さんに熱狂しましたが、中学から興味が音楽と数学へシフトして高校まで理系でした。大学へ入る時に文転して、ようやく文学に近づいた。だから、少年時代にひたすら古典を読み漁るような経験が抜けているのがコンプレックスです。

――高校、大学の頃は、村上龍や村上春樹が若手として注目されていたと思いますが。

矢野:もちろんお二人とも熱狂して読んでいました。僕が生まれて初めて対面して会った生身の小説家が村上龍さん。1987年かな、京都の大学の学園祭に呼んだんです。ご自宅に手紙を送り公衆電話からお願いしたら「いいよ」って。

――京大にいた浅田彰がニューアカデミズムの旗手として脚光を浴びた頃でもある。

矢野:浅田さんがいたから京大経済学部へ入ったんです。理系に挫折した当時、浅田さんが『構造と力』でロジカルに語った世界の美しさに感動した。1年生の頃から、浅田さんと会うようになり、彼がやっていた思想雑誌「GS」のテープ起こしを手伝ったり。あんな天才的な人を目の前にすると、自分は学者になれないと思い知る。でも、何の特技もない、ただのカルチャー好き野郎(笑)。だから、出版社へ行きたいんですが誰か紹介してくれませんかと浅田さんに頼んだんです。すると、憐れむような目で「本当にいいの? そんな職業で」といわれ(笑)、でも紹介してくれることになって、やったーと思ったら後日に名前と電話番号を書いた紙を1枚渡された。

――ただのメモで紹介状ではない(笑)。

矢野:紹介ってこれかい(笑)って。3人の名前が書いてあって、創刊前だった新潮社の雑誌「03」副編集長の小崎哲哉さん、「マリ・クレール」(中央公論社・当時)の安原顯さん、「月刊カドカワ」(角川書店・当時)の見城徹さん(現・幻冬舎)。上から順に電話して、小崎さん、安原さんに会い、新潮社での採用が決まったので見城さんには電話できず。

――とはいえ選択肢がすごい。安原、見城両氏は注目される編集者でしたし。

矢野:「03」はカルチャー雑誌だし、これから創刊だから素人の自分でも関与できる余白があるかもしれないと期待しました。でも、キャリアがゼロなので入社試験は受けるしかなくて、面接で「03」に行きたいといったら、「その雑誌、まだ創刊されてないよ。普通は「週刊新潮」とかいうよ」(笑)といわれつつも受かって創刊準備室へ配属されました。

――「03」ではどんな仕事をしていたんですか。

矢野:創刊からしばらくして「京都からきたお前が考えろ」と京都特集の立案を命ぜされました。あと、アムステルダム特集の企画を出したら通ってしまい、それが僕の初海外渡航。日本から書き手を2人連れ、到着当日にアムスのホテルで写真家のオーディション。写真家からは「お前、海外で仕事するなら、もう少し英語ができたほうがいいぞ」と説教されました。

 そもそも「03」最初の仕事が、世界的パフォーマンス・アーティストのローリー・アンダーソンにFAXでの出演依頼だった(笑)。浅田彰さんとの衛星テレビ電話対談。ビジネス英語なんて一切わかんないから先輩に依頼状の書き方を教えてもらいました。KDDが衛星テレビ電話を開発して使用料は1時間500万円くらいでしたけど、NYと東京のKDD施設を無料で使ってなんか面白いことをするというタイアップです。

――むちゃくちゃな世界(笑)。

矢野: 京都特集のメイン編集を任されたのはいいけど、経験値ゼロ。あいうえおも知らないのに立派な文章を書けといわれたような厳しい状態で、プレッシャーでぶっ壊れました。唯一間違っていないのは仕事をし続けることだから、会社に寝泊まり状態に。会社の仲間に「最近、視界が狭くて、右のほうも左のほうもよく見えないんだよ」と言ったら、「お前、ノイローゼじゃない?」といわれ、「そうか、これがノイローゼかー!」と認識できた瞬間に視界が明るくなった(笑)。「03」は2年間で24号しか出ませんでしたけど、濃密な勉強ができました。岸田國士戯曲賞を受賞する前の柳美里さんに知り合ったのも「03」時代です。

編集の仕事は「死ぬまで飽きない」

――その後、書籍編集に移ったんですか。

矢野:「03」休刊でどこへ行きたいか聞かれ、一瞬辞めることも考えました。休刊が決まって新たな配属先が決まるまでのあいだに、「iD JAPAN」でエイドリアン・シャーウッドをインタビューしたり、「ぴあMUSIC COMPLEX」の坂本龍一特集で書いたりしていたんです。自分のスキルはそっちか、書籍は知らないから雑誌編集か。だから「新潮」へ行きたいといったら当時の編集長に断られ(笑)、それで本のセクションへ行きました。

――書籍編集では小説で阿部和重『インディヴィジュアル・プロジェクション』、批評で東浩紀『存在論的、郵便的』を担当されましたが、どんな守備範囲だったんですか。

矢野:2作とも私の編集者人生を変えた本ですね。担当は全方位で、小説、批評、アート、ノンフィクション、翻訳や文庫、選書――なんでもやらせてもらえて、死ぬまで飽きない職場だなと思っていました。だいたい今いるところが最高と思う楽天的なタイプではあるんですけど(笑)。

――1990年代後半には『インディヴィジュアル・プロジェクション』の発表後、河出書房新社が「文藝」などでJ文学のムーブメントを仕掛けました。そこからさかのぼる形で『インディヴィジュアル・プロジェクション』が、J文学の象徴のような扱いをされることになったわけですが、担当編集者としてはどう感じていたんですか。

矢野:阿部さんと二人三脚で『インディヴィジュアル・プロジェクション』を「新潮」に掲載したのは私の先輩編集者です。で、私が単行本を担当したわけですが、J文学についてはポカーンとしてましたね。当時、日本語でも世界文学は可能だ、むしろローカリティをつきつめたものが世界文学になるみたいな価値観があった。ラテン・アメリカ文学のようなああいうものが世界文学だと。そういう状況でJAPAN文学ではなくJ文学だと一応ひねってはいても、その感覚にピンとこなかった。あと、世の中にこういうトレンドがあるって見方が僕は能力的に得意でない。優れた才能は、シンギュラリティ(特異点)としてみえるんです。でも今思うと、潮流を見つけ名づけることも立派な文学活動だし、そのことへの嫉妬はあったかもしれません。

阿部和重『インディヴィジュアル・プロジェクション』(新潮文庫)
阿部和重『インディヴィジュアル・プロジェクション』(新潮文庫)

――同書は内容に加え、Jポップのアルバムのようなデザインも注目されました。

矢野:カバーについて僕がしたのは、阿部さんの好きにやってもらうことだけでした。阿部さんのキャスティングでデザインが常盤響さんになった。常盤さんにとって初の装幀だし、僕と無関係に阿部さんと常磐さんが盛り上がってふたりでガンガンやりとりしていた。最後は出版部長が腰を抜かすのが想像できたので、配本日に間に合うかどうかというギリギリにデザインをみせ「うっ」といわれたけど、もう通すしかなかった(笑)。

「新潮」編集長としてのキャリアと振り返る文芸史

――2003年に「新潮」編集長になったのは、自分から手をあげたんですか。

矢野:突然命じられたんです。ナントカ長の経験も文芸誌の経験もなかった。だから編集長じゃない一編集部員としてせめて1、2年はやらせて欲しいとお願いしました。でも、会社は応じず、何も知らない世界にぶちこまれる十何年ぶりの悪夢。腹くくって引き受けましたが、二度目のノイローゼになった(笑)。

 編集長になった翌年が創刊100周年だったのが原因です。記念号を作らなければいけないのに「新潮」を作ったことのない者が100年の歴史を表象する号を作れるわけがない。責任の重さと自分の力量とのギャップに悩んでも答えが出なくて時間が過ぎる。編集部員もハラハラしながら、僕が暗い顔で硬直している様子をみていた。やばい、今動かないともう時間的にアウトって時にようやく編集プランを配った瞬間、部員が電話に飛びついて依頼を始めたくらい時間的に切羽詰まっていました。

――最近の文芸誌への注目は2019年の「文藝」のリニューアルがきっかけですが、昨年、同誌の坂上陽子編集長は、ゼロ年代には「ファウスト」の太田克史編集長、「SFマガジン」の塩澤快浩編集長、そして「新潮」の矢野さんに刺激を受けたとインタビューで答えていました。3人は、文芸シーンに新しい流れを生んでいた。

矢野:僕自身の編集者像は、シンギュラリティとしての作家の才能を助ける仕事というものです。2003年当時なら、たとえば舞城さん、佐藤友哉さんが新たなシンギュラリティでした。太田克史さんが彼らを見いだし、僕は「新潮」へ移る前から2人と仕事したいと考えていた。それで「新潮」編集長になって翌月に舞城さんの『阿修羅ガール』が三島由紀夫賞を受賞した。純文学の定義が更新された気がしました。その翌年には綿矢りささん、金原ひとみさんが芥川賞受賞で爆発的な注目を集め、文学に新しい波がきているのは、シンギュラリティ派の私でも感じていました。

――そうしたゼロ年代と今の文芸誌をめぐる状況の違いについてどうみていますか。

矢野:単行本は売ることが年々大変になり、文芸誌は最初から下げ止まっているというか。もちろん本にした時に売れる作品、読者に読まれる作品を載せたい気持ちは大前提ですけど、文芸誌が才能ある人たちに自由に書いてもらえる空間であるようにしたい、その運営に力を尽くしたいという考えは基本的に変わっていません。その点が大幅に不自由になったかというと、まったくそうはなっていない。

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