ピース又吉×せきしろが語る、自由律俳句の面白さと自意識の葛藤 「自分が好きかどうかと自意識は別なのかもしれない」
お笑い芸人や作家として活躍する又吉直樹(ピース)とコラムニストや作家として活動するせきしろによる自由律俳句集第3弾『蕎麦湯が来ない』が現在、発売されている。五・七・五のリズムで季語を使う定型俳句とは異なり、自由なリズムですべての情景や心情を切り取る自由律俳句。本著では2人によって生み出された404句に加え、50篇のエッセイも収められている。
リアルサウンドでは、この度、著者であるせきしろと又吉に2人の出会いから自由律俳句の面白さ、また2人がこれまで直面してきた自意識について語ってもらった。(タカモトアキ)【最終ページに読者プレゼントあり】
ハンコがデカいという面白さの共有
――せきしろさんが又吉さんを誘ったことから生まれた、おふたりの自由律俳句集ですが、せきしろさんが自由律俳句を意識されたのはいつ頃のことだったのですか?
せきしろ:高校時代の国語便覧ですね。俳句のページがあっていろんな句が載っている中に自由律俳句を見たのが初めてでした。けど、ちゃんと読み始めたのは、30歳すぎてからかもしれない。当時、仕事があまりなかったんですけど、いろんなことを思いついてしまうので、アウトプットする方法は何かないかと探している中でいろんな句を詠んでいました。
又吉:僕は学生時代に種田山頭火の句を便覧のようなもので見たり、雑誌の特集にあった名言名句辞典で同じく山頭火の句を見かけたりしていたくらいで、あまり意識したことはなかったんです。俳句の一種やということもわかってなく、詩人みたいな人が書いたものなのかなくらいの感じで、せきしろさんから初めて自由律俳句のことを聞いて、こういうものがあるんやと知りました。
――初めて会った日のことは覚えていますか?
又吉:僕のことを“まったん”と呼ぶ唯一の構成作家さんと3人、新宿の居酒屋で会いました。その作家さんが結婚した時、せきしろさんに証人を頼んだら、婚姻届に捺したハンコがめっちゃデカかったらしくて。実家から持ってきたものがデカかったんですよね? せきしろさん、その時「なんか恥ずかしいなぁ」って言っていて。
せきしろ:恥ずかしいでしょう、それは。もう1人の保証人のハンコが普通だったから余計に目立っていたし。
又吉:(笑)。ハンコがデカいのが恥ずかしいっていう、今まで誰とも共有できなかった感覚を共有できたことで信用できたというか。その作家の方も、ハンコがデカいことを面白がれる人やったから会わせてくれたんやろうなと思いました。
せきしろ:吉祥寺のパルコの地下にある本屋さんで、又吉くんのことはよく見かけてたんです。当時から割とお笑いのイベントを見ていたので知ってはいたんですけど、声をかけるのはできなくて。で、共通の知り合いだった作家の子に頼んで会わせてもらったんですよね。
――その時、すでに自由律俳句を一緒に作りたいという気持ちはありましたか?
せきしろ:一緒にやりたかったんですけど、僕が先輩なので“やるぞ”って言っちゃうと又吉くんはやるしかないじゃないですか。だから、探り探りですよ。「ダンスが好きなんだよね?」とか聞いたり。又吉:そんな話、記憶にないですよ?
せきしろ:(笑)いろんな可能性を探りながら自由律俳句の話もして盛り上がった次の日、寝て起きたら又吉くんから100個くらい、句が届いていたんです。
又吉:面白そうだと思ったんですけど、自由律俳句がまだよくわかってなかったので、別れてすぐ作った句を送ってみました。
せきしろ:(メールを)すーーっごくスクロールしました。
又吉:怖かったでしょうね、いきなり100句も送られてきて(笑)。
せきしろ:思った以上にちゃんとできていて感動しましたよ。それまで自由律俳句が好きだということを誰にも言ったことがなかったんです。けど、勇気を出して言ったことに又吉くんがちゃんと答えてくれたことで、仲間ができたと思ったんです。
自由律俳句の面白さ
――自由律俳句はどんなところが面白いですか?
又吉:律がリズムみたいなものだと考えると、自由律俳句はリズムが自由だということ。音楽で言うと作詞はもちろん、自分で作曲もせなあかんみたいなことですよね。定型の俳句は季語があって一見難しそうに感じるんですけど、むしろ季語が作り手を助けるものだと捉えている人もいる。一方、自由律俳句は作り手を助けるものがない状態で、全てを考えないといけない難しさがあるんです。尾崎放哉が定型と自由律両方作ってますけど、自由律のほうが面白い。ということは、向き不向きもあるんでしょうね。せきしろ:あると思います。いろんな人の句を詠んでいるとセンスがもろに出てしまっているので。さっきのハンコがデカいみたいな話って本来どうでもいいじゃないですか。自由律俳句はそういうところを作品にする感じがたまらなくいいんです。
又吉:例えば、歌に恋愛の曲が多いのは、恋愛が最強のあるあるだから。それが悪いということじゃなくて、表現って多くの共感を集めることを選択しがちじゃないですか。けど、ハンコがデッカいっていう歌なんて聴いたことないでしょう?
――確かにないですね。
又吉:それを表現できるジャンルだというのが、自由律俳句の面白いところ。必ず言語化しないと誰かが死ぬみたいなことではないけど、それがないとしんどい人もいるという種類の表現なんですよね。尾崎放哉は生死に関与する句も詠んでますけど、例えば『すばらしい乳房だ蚊が居る』とかすごい句で。「すばらしい乳房だ」から淫猥なほうに流れていきそうなところを、『蚊が居る』って感傷のほうへいかず、超現実的な見たものを表現している。もちろん放哉は笑かそうと思って作ったわけではないんでしょうけど、「すばらしい乳房だ」という表現でその人に対する思いへ意向する流れに僕らは慣れすぎているから、『蚊がいる』と言われるとハッとするし、笑いそうになるんです。
せきしろ:放哉の句に『墓のうらに廻る』というものがあるんです。これ、ヴィレッジヴァンガードに売ってるインディーズバンドの曲名、もしくは翻訳エンジンの翻訳みたいじゃないですか。墓を題材にした作品はいろいろとありますけど、まず墓の裏に廻る必要があるのかなって不思議に思いますよね。そういうことを作品にできるのが、僕にとっていいことだというか。こういう作品に触れると、まだ健全でいられるなと思えるんです。
――今回収められているお互いの句には、どんな印象を持っていますか?
せきしろ:結局、僕が思いつかないことを又吉くんは思いつくし、もしかしたらその逆もあるのかなと思います。けど、特に棲み分けているわけではなく、自然と違いが出ている気はしますけれどね。
又吉:完全に他人という感じはしないですよね?。
せきしろ:そう思う。もちろん、長年一緒にやっているのでかぶらないようにしようっていうことは、無意識の中にある気はしますけどね。
又吉:僕とせきしろさんの間にあるような句もあると思います。今回のタイトルは僕が詠んだ句ですが、せきしろさんが提案してくれて。1作目が『カキフライが無いなら来なかった』、2作目が『まさかジープで来るとは』と、来る来ないになっているからこれでいこうと言われて、いいですねって返したんですけど、僕は自分の句だということを忘れていて。蕎麦湯が来ないと思っているせきしろさんを想像したら面白いなと思ってたんですけど、“そうか、俺が昔作ったヤツか”と途中で気づきました。