もしも夫婦間のセックスがタブーとなったら? 村田沙耶香『消滅世界』が問う、性や家族のあり方

もしも夫婦間のセックスがタブーとなったら?

 11月28日公開の映画『消滅世界』(監督・脚本・川村誠)は、結婚、恋愛、家族などに関する考え方が、現在の日本とは異なる世界を舞台にしている。そこでは、夫婦間の性行為がタブーなのだ。かつて、タモリが「家庭に仕事とセックスは持ちこまない」といってギャグにしていた。ただ、家庭の外で性的関係を結ぶ不倫が珍しくない一方で、昔から夫婦には倦怠期があるとされていたし、いつからかセックスレスという言葉もポピュラーになった。あの「セックスは持ちこまない」のギャグにも、ある種の真実が含まれていたように感じられる。そうした夫婦の距離感を、誇張したSF的設定でひねりを加えて描いたのが、同映画の原作小説である村田沙耶香『消滅世界』(2015年)だ。

 夫婦となった男女が性交渉して子供が産まれたのは昔のこと。今では繁殖のための「交尾」はせず、子供がほしくなった女性はパートナーをみつけ、病院で人工授精により出産するのが当たり前になった。初潮を迎えた女性は、避妊処置が義務づけられているので、人工授精以外で偶発的に妊娠する懸念はない。また、人工子宮の研究が進んでおり、今後は男性や高齢女性の妊娠出産も期待されている。こうした設定で始まるのが、『消滅世界』である。

 同作の世界では、第二次世界大戦で男性たちが戦地にむかい子供が激減し、人工授精の研究が飛躍的に進化した。このため、「交尾」で繁殖することがほとんどなくなったという。恋愛で発情した際にはマスターベーションで処理し、昔と同様にセックスする場合もあるがそれは繁殖と結びついていない。また、繁殖と無関係なこの世界の恋愛では、人間ではなく二次元のキャラクターと恋愛状態になるのも普通だ。結婚という制度は残っているものの、二人の子供がほしい、経済的に助けあいたい、仕事をするために家事を分担してほしいといった合理的な理由であることが多い。恋と性欲は家の外で排泄するものであり、夫婦間の性交渉は「近親相姦」と呼ばれ忌み嫌われる。これが、作中世界の常識だ。

 今の日本からみたら奇妙で歪んだ世界に思えるが、恋愛、夫婦、出産などをめぐる現実への不満からすれば、『消滅世界』の状態は望ましい。人によってはそんな風に感じる部分も含まれているのではないか。

 作者の村田は、10人産んだら1人殺してもいい制度で国の人口を保つ「殺人出産」(2014年)、三人組での恋愛やセックスが当たり前な「トリプル」(同年)、家庭にセックスを持ちこむのは異常とされる「清潔な結婚」(同年)など、性や恋愛、家族に関して現実とは違った常識が支配するSF的設定の短編を『消滅世界』以前から発表していた。『消滅世界』以後にも、自分を宇宙人だと思って育った女性が、恋愛やセックスに違和感を覚え世界は人間工場だと思う『地球星人』(2018年)、人工愛玩動物だったピョコルンに性欲処理と出産の機能が加わり、人類が性愛やケア労働などから解放されようとする上下巻の大作『世界99』(2025年)などを発表している。性や恋愛、家族に対する作者の関心は一貫しており、ライフワークとなっているように思える。

 『消滅世界』の場合、夫婦間の性交渉で生まれたという、この時代には珍しくなった境遇の雨音(あまね)が主人公である。彼女は、愛しあう男女が子供を作るのは当然だと、母から教えられて育った。人工授精が当たり前になった社会の価値観を受け入れた彼女と母の間には、摩擦が生じる。性をどうとらえるかで親と子の価値観が異なり、ぶつかりあう様子は、昔から物語の題材になってきた。貞淑さを求める旧世代と性に奔放な新世代が衝突するのが、よくあるパターンだろう。それとは違い、『消滅世界』は愛しあう夫婦の肉体関係を善と信じる母と、夫婦の外の恋愛を(二次元も含めて)正しいと考える娘が対立するのが興味深い。読者の現実社会とズレているぶん、ユーモラスにも感じられるはずだ。

 最初の結婚で勃起した夫に襲われ離婚した雨音は、次の夫・朔と穏やかに生活するようになる。だが、家の外での恋愛がうまくいかなかった2人は、千葉の「実験都市・楽園(エデン)」へ移住する。ここでは大人全員が、人工授精で生まれたすべての子供の親とされる。男も含め誰もが「おかあさん」と呼ばれ、「子供ちゃん」を可愛がるのだ。猫カフェならぬ「赤ちゃんカフェ」状態である。「楽園」は誰がどの子の親かわからない仕組みになっており、夫婦で暮らすことも許されない。1人1人で住んでいるが、みんなが「子供ちゃん」の「おかあさん」になれる。夫婦、親子、家族の形が、さらに解体された街だ。「楽園」では、いろいろなものが消滅しようとしている。

 作中世界では、夫婦間のセックスだけでなく、人々の間でセックス全般や恋愛への忌避感が広がっており、それに対応するように「実験都市」は作られた。雨音と朔がなぜ「楽園」を目指したかといえば、恋のない世界へ駆け落ちしようと考えたのだった。なんともトリッキーな展開である。

 生殖のあり方が規制されるのは、ディストピアものによくある設定だ。ディストピア小説の古典であるザミャーチン『われら』、オーウェル『一九八四年』、ハクスリー『すばらしい新世界』は、国家が恋愛、セックス、生殖の結びつきを切断する点で共通していた。人々の愛は国家にむけられるべきであり、個人間の恋愛は認めないというのだ。それに対し、主人公が規制への反抗を試みるのが、ディストピアものの典型である。しかし、『消滅世界』の主題は、制度への反抗ではない。

 昔の価値観を押しつけようとする母に従わず、雨音は社会の価値観に適応しようとした。だが、母に受けた教育の残滓のためなのか、環境になじめず、意識や行動がどこか逸脱してしまう。彼女は環境が変わるたびに適応と逸脱を繰り返し、やがて「楽園」にたどり着く。物語の主人公として、反抗というわかりやすい英雄的行動をとらない点がかえって、性や家族などに落ち着かない思いを抱いている普通の人々に響くように感じる。そのような主人公の造形は、近作『世界99』の主人公・如月空子が、相手への「呼応」と「トレース」を特技とする、性格のない人間とされていることにもつながっているだろう。

 『消滅世界』は、性や家族について読む者にもう一度考えてみるようにうながす作品だ。

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