伏見瞬 × 後藤護が語り合う、『チェンソーマン』の性愛表現「自分の中のマゾ的要素を見直すことも必要」

伏見瞬 × 後藤護『チェンソーマン』対談

 劇場版『チェンソーマン レゼ篇』の世界での興行収入が200億円超えするなど、いまや日本を代表するコンテンツのひとつとなった藤本タツキの漫画『チェンソーマン』。90年代の日本を思わせる時代背景や、「悪魔」という概念をめぐるユニークな設定、過激な暴力描写など、語りたくなるポイントがこれでもかと詰め込まれた作品だが、中でも注目せざるを得ないのは、同作ならではの“性愛表現”ではなかろうか。

 批評家の伏見瞬と後藤護に『チェンソーマン』の奥深い魅力ーー特に性愛表現における本作の特異性について、自身の趣味嗜好を交えつつ、赤裸々に語りあってもらった。(編集部)

美しい女性に裏切られる瞬間が一番の快感

後藤:『チェンソーマン』は映画秘宝系というのかな、いわゆるバッドテイスト・ムービーからの影響が見てとれます。しかし藤本タツキは『ルックバック』の作家でもあるし、『さよなら絵梨』の作家でもある。さらに、『チェンソーマン』第二部になると、主人公は女の子でハッキリと少女漫画の質感もある。そう考えると、バッドテイストとの関連性などから語るだけでは掬いきれないナイーヴで繊細な部分が、藤本タツキの漫画にはあります。そこで、『スピッツ論 「分裂」するポップ・ミュージック』の著者であり、『幽☆遊☆白書』18・19巻の“透明感”が好きだという伏見さんに来てもらいました。

伏見:今日は“透明感担当”ということですね(笑)。まずは劇場版『チェンソーマン レゼ篇』の話からしましょう。同作との比較対象として一番わかりやすいのは、『呪術廻戦』だと思いました。というのも、同時期の人気ジャンプ漫画だからだけではなく、両作のバトルシーンにおける“空間の扱い”が対照的だから。『呪術廻戦』では“領域展開”という言葉が象徴するように、空間=枠組みの設定がめちゃくちゃ大事にされています。相手との距離感はもちろんのこと、味方との距離感まで細かく演出してる。渋谷事変でも、地上に出られない地下鉄構内という空間条件から“どう戦うか”を先に決める。

 一方で、『レゼ篇』における台風の悪魔とのバトルは、逆に空間感覚が失われるんです。漫画で読むと「これ、どこにいるの?」ってなる。劇場版ですごく良かったのは、そのワケのわからなさを“運動”として気持ちよく描き直しているところで、漫画だと“わからないままの魅力”で終わる部分を、別種の快楽に変えていた。劇場版を見てから漫画を読むと、後半の戦いは淡泊に見えるくらい。

後藤:わかる。間合いがなくなって対象とゼロ距離になり「分からない/分けられない」混沌が基本的にグロテスクの原理なわけで、藤本タツキはクリアでロジカルな空間設定を放棄して、台風の悪魔とのバトルシーンみたいなもの作ることあるよね。今朝読み直して、漫画と映画では全然違って見えた。TVアニメ版は当初、不評だったそうだね。要するに、アクションを盛り上げてほしいのにドラマの重さが勝ちすぎて、90年代日本映画っぽい重さになったのが批判されたんですよね。

伏見:今回の『レゼ篇』はその反省を生かしていたと思う。

後藤:たしかにアクションシーンには工夫が見られましたね。ただ、伏見さんが“運動の人”だとしたら、僕は美学的にも社会的にもエクササイズ的にも“運動”にコミットできない悲しい静力学(スタティクス)の人だから(笑)、やはりドラマパートの方が気になっていて、プールの場面とか、“レゼが舌を噛み切る”までのところに注目しちゃった。今回の主題は「爆発」じゃないですか。爆発はスペクタクルの最たるもので、レゼが最初にデンジとキスする時、花火がパーンって上がるじゃない? 表面的には『ラ・ラ・ランド』のサンプリングなんだけど、ヨーロッパの視覚芸術の歴史なんかを調べると、宮廷の祭典における花火演出こそがスペクタクルの元祖で、そのスペクタクル伝統が映画まで引き継がれているという壮大な枠組みがあって、その最先端である『レゼ篇』は“爆発の表象”にさらにメタファーを弾薬のように充填した印象です。

 ただ、最初に言っちゃうと、僕ね、レゼそんなに好きじゃなくて、第二部の三鷹アサの方が好きなんです。マゾだから(笑)。12巻冒頭で三鷹アサ(ヨル)が「田中脊髄剣」を発動させた後、やっつけた悪魔が爆発するわけですけれど、彼女は爆発に無関心で、背中で爆風を受け止めながら余裕しゃくしゃくと歩き去る、見開きの超クールなページがある。この“爆発への無関心”は、この『表象10:爆発の表象』という本にも論考が掲載されているんですけれど、「ハリウッド映画における爆発シーンは一体誰に見せてるのか」という問題にも繋がる。要は、本当だったら映画の登場人物たちは爆発があったらすぐ安全圏に逃げるべきなのに、無関心に背を向けることで“俺がカッコよく見えてるの知ってるぞ”という演出になっているという指摘で、つまり爆発への無関心とは観客への強烈な関心の裏返しでありナルシシズムだと。劇場版の特典として配られた小冊子『恋・花・チェンソー・ガイド』では、「恋」と「爆発」は「一瞬で、すさまじいことが起きるけれど、その後には何も残らない」共通点があると藤本タツキ自身が言っていて、つまり『レゼ篇』の爆発の表象には恋愛に直結するピュアネスとストレートさがあるんだけれど、爆発に無関心な女=三鷹アサ(ヨル)にはファム・ファタール的な冷たさと捩じれたナルシシズムが感じられて、むしろ後者がマゾ男にはグッと来るわけです。

 ともあれ、たぶん僕と藤本タツキの性癖は同じで、美しい女性に裏切られる瞬間が一番の快感なんですね。だから、『レゼ篇』最大の盛り上がりは花火を見ながら舌を噛み切られた瞬間で、あの耽美系ヴァンパイア映画のような血のエクスタシーで僕は「果てて」しまい、あとは正直どうでもいいかな(笑)。伏見さんはレゼ、どうですか?

伏見:僕は真逆で、レゼがめっちゃ好きです。後藤くんが言う“女性からの裏切り”に関して言えば、レゼは一番、デンジを裏切っていないんですよ。マキマを含めて多くの女性キャラはデンジを傷つけに来るしそこはレゼも同じなんだけど、レゼは最後に“好き”を残して去る。天使の悪魔に殺される終わり方も美しくて、とても甘いんです。

 もっと言うと、第1部は“マキマが監督した映画”という構造になってる。マキマは“演出者”として物語全体を動かしているんだけれど、レゼに関してはマキマ演出の枠内にありながらも甘さを残していて、デンジにはあえてレゼの死を伝えていない——あの“教えない”という演出がすごく良かった。

後藤:やっぱり伏見さんを呼んでよかった。“甘さ”があると同時に“ビター”でもある、花田清輝っぽく言うと一つの中心に統御される円ではなく、二つの焦点に引き裂かれた楕円であると。米津玄師と宇多田ヒカルがデュエットするワルツ調のEDテーマ曲「JANE DOE」もビターな楕円幻想をしっかり汲みとっていたね。もしもゴアスプラッター・ムービーに詳しいヒロシニコフさんなんかと対談していたら、藤本タツキのスカムなバッドテイスト理解は『悪魔のいけにえ』どまりで、H・G・ルイス、アンディ・ミリガン、さらにもっとエクストリームな「糞映画」(マキマ)をディグって「スカムのスカムまで喰う」(宇川直宏)とこまで到達できてない!などと、ジャンルオタクっぽい苦情を言って終わった可能性がある。それもいいけど(笑)。

“戦う女の子が負ける瞬間”にフェティシズムがある

後藤:レゼがデンジを夜の学校に誘って、授業ごっこをするシーンがあるじゃないですか。あれは迷惑系YouTuberっぽさもあるけれど、なんといっても学校モノのAVみたいですよね。実際、『チェンソーマン』のパロディAVに『ディルドーマン』という作品があって、円井萌華さんという女優がアニメ版に先駆けてレゼ役をやっているんですけれど、すごく完成度が高いと一部マニアではひそかに話題で、むしろこっちが元祖じゃないかと疑ったくらいなんですよ。

 なにが言いたいかというと、『チェンソーマン』はそれほどリアルな恋愛を描いているわけではなくて、マゾ男が見たファンタジーを描いているんじゃないかと。ブラム・ダイクストラが名著『倒錯の偶像』で語り尽くしたテーマではありますが、『チェンソーマン』における恋愛表現は、“サディスティックな女が男をいじめる=女性上位”みたいな単純図式ではなく、“悪女崇拝”という男側の歪んだ欲望の投影としても読めると思うんです。『レゼ篇』はたしかに純愛モノとして観ることもできるし、バランスとしてはそちらの方が勝っているとは思うんだけれど、第二部の三鷹アサ(ヨル)になると小松奈菜ふうのクールな三白眼になり、ルックス的にも性格的にも悪女の比重がずっと勝っていて、“悪い女にドロドロに溶かされたい/母胎回帰”みたいなデカダンスの欲望を強く刺激するんです。伏見さんもぜひ性癖を暴露してください(笑)。

伏見:いつでも暴露してるけど(笑)。僕は“戦う女の子が負ける瞬間”にフェティシズムがあるんです。だからレゼが最後に敗北するところが一番グッときました。幼少期に戦隊シリーズを観ていて、女性キャラが追い詰められる回に「何だこれは?」と気になってしまった原体験があって……。

後藤:素晴らしくなってきたぞ!(笑)。斎藤環さんの「戦闘美少女」にもう一ひねり加えた感じだな。

伏見:でも、『チェンソーマン』の女性キャラに対して、ことさらの“キャラ萌え”があるかどうかというと、ちょっとよくわからないかも。

後藤:なんと、それは意外です。僕は“女性キャラの魅力”に駆動されて読んでいました(笑)。ところで、美大出身の藤本タツキは「絵」から発想するタイプで、チェンソーマンもデザインが物語に先行しているんですよね。『レゼ篇』は最初と最後だけ決めて、あとは出たとこ勝負だったとも語っていました。だからかもしれませんが、僕はあまり伏線回収がうまい作家という印象はなくて、例えば『進撃の巨人』の諫山創と比べるとロジックや世界観の強度に欠ける印象。それよりも『ルックバック』や『さよなら絵梨』などの短編や、あるいは『レゼ編』のようにナイーヴな感性で勝負する系列の方が、彼の作家性は映えると思うんです。どちらかというと、物語の強度で読ませるような長編作家ではないのかなと。

伏見:僕は逆の認識かもしれない。『ルックバック』や『さよなら絵梨』より、『チェンソーマン』や『ファイアパンチ』などの長編の方が好きで、“伏線回収=円の完成”だとすると、『チェンソーマン』の面白さはその円運動に完全には乗らないところだと思うんです。物語としては、マキマが演出する円の完成を、デンジが突き破っていく。『レゼ篇』のアクションでいえば、冒頭で言った台風の悪魔戦。台風の物理法則(円運動)に従わずに、デンジとビームは円を斜めに突っ切るように動く。円運動に乗らない運動そのものが魅力で、つまり“円”と“ジグザグ”——両方の拮抗が面白い。『ルックバック』に乗り切れないのは、円の動きが強すぎるからかもしれない。

後藤:円とジグザグの見立て、すごくおもしろいね。僕の師匠である高山宏が訳した『ボディ・クリティシズム』の文脈で言えば、18世紀のヨーロッパ啓蒙時代は百科全書みたいにすべてを円環的な知の体系に取り込んでいく知性バンザイ文化だった反面、同時代にはワーキング・クラスの飲んだくれや浮浪者や娼婦ばっかり絵に描いたウィリアム・ホガース的なだらしない身体=知に取り込めないジグザグ文化があったというんですね。で、藤本タツキは後者のボディ・カルチャー側、ディオニュソス的欲望に表現の軸があって、山口昌男っぽく言うと、予定調和的な円運動を斜めから「挑発」する道化っぽいしぐさがある。だからデンジが根源的欲望に目覚めていくプロセスで、運動はジグザグ/支離滅裂になっていき、マキマと対立していく——それが生/性のリアリティであるということを、第一部はまさにテーマ化している。マキマ=結晶化して夾雑物のない知性と、デンジ(チェンソーマン)=ボディのジグザグの対立と捉えると、この作品の核がすごくクリアに捉えられると思います。

伏見:たしかにその図式はわかりやすいね。それと『チェンソーマン』は一見するとアンモラルな漫画に見えるけれど、実はモラルの側に立つのが巧いのもポイントだと思う。マキマ的な支配の欲望って、実際は誰もが持っているものだと思うんだけれど、多くの人はコントロールできないものがあることの方が自然だと思っていて、だからこそジクザグのデンジに正義を感じられる。コントロール不能の生こそを善と感じる読者の倫理に寄り添っていて、ジャンプ主人公としての正統性がそこにある。

後藤:僕はコンプラ意識が高まっている中で、すごく攻めた漫画だと思っていたから、実は倫理的な漫画だというのは意外な読み方でした。喫煙描写めっちゃ多いけど、これ大丈夫?って内心ワクワクしながら読んでいたというか……。

伏見:ラインぎりぎりを上手に攻めているんですよね。まず「一般人がどんどん死ぬ」というリアリティ・ラインを示した上でタバコを出す、みたいな枠作りが上手い。あと、もう一つ特筆すべきは、『レゼ篇』は昨今、ヒット作が出にくいとされている恋愛物語をちゃんとやっているというところ。映画・漫画・ドラマでも恋愛要素は下火で、たとえば『鬼滅の刃』だって基本的に恋愛要素はないじゃないですか。あっても喪失としてしか描かれない。これはMeTooやポリコレの空気とも連動していて、おそらく恋愛・性愛に対する忌避感がすごく強い世の中になっている。そういう中で『レゼ篇』がヒットしたのは反時代的で面白い。

『チェンソーマン』は「良い男性学の漫画」

後藤:だとすると、2025年はロアリング・トゥエンティーズ(狂騒の20年代)の始まりなのかもしれないですね。100年前の1920年代はものすごい文化や芸術の「爆発」の時代で、たとえばジャズやエロティック・アート、何ならオカルト神秘主義さえもが大きく花開いた豊穣な時代だったんです。もし伏見さんのいう反時代的な価値観の揺り戻しの瞬間が2025年にあるのだとすれば、これは結構、ただごとじゃない現象かもしれません。


 ミシェル・フーコーっぽい言い方になるけれど、近年はコンプラ/ポリコレ的な「ディスクール(言説)」に縛られすぎているから、その鎧を一度外したいという願望は多くの人にあるのかもしれませんね。その鎧を外せば、たぶんみんなデンジっぽくなるんですよ。もしも僕に概念を消す能力が使えるとしたら、「性愛はコスパ最悪で、コンプラ的にも危ない」という概念自体を消したいくらいです(笑)。そもそも、安心安全な性愛なんてないわけですから。

伏見:生きていること自体が安全じゃないからね。性愛って本来、逃れられないモノじゃないですか。男女やノンバイナリ含め、誰も逃げられない問題。逃れられないものから逃げようとすると、かえって悪い方向に行きます。マジで「逃げちゃダメだ」ですよ。

後藤:『チェンソーマン』はよくも悪くもヘテロセクシャルの男性作家が描いた漫画で、ある意味で保守的な作品でもあると思うんです。そして性愛への忌避感は、特に男性のヘテロセクシャルに対する嫌悪感が大きく関わっていると思っていて、それはそれで問題があると考えています。もちろん、性差によって生まれる権力構造を持続させることを良しとするわけではないのですが、「ヘテロの男だから気持ち悪い」みたいな偏見が暗黙のルールになってしまうと、若者たちが萎縮してしまって本末転倒なところもあるんじゃないかと。それに、僕と伏見さんの性癖が全く違うように、ヘテロと言っても多様で、一枚岩ではない。しかし、そこは地獄の釜か何かのようにフタをされている。

伏見:性自認や同性愛の多様性を認める論理でいけば、ヘテロの中にも無限のバリエーションがあることにも目を向けるべきだろうし、同じ人の中でフィクションに求める性と現実に求める性がズレることもあるわけですからね。その意味で第二部は「デンジならではのセクシュアリティ」をかなり具体的に描けていて、そこも評価したいポイントです。

後藤:永山薫さんの『エロマンガ・スタディーズ』の文脈でも読めると思う。特に第二部はヘテロ男性のセクシュアリティを繊細かつ大胆に描いたテキストとして、もっと評価されるべきですね。「第一部よりつまらなくなった」とか狭いリョーケンで吠えている連中の評価軸そのものを疑ってみたほうがいいね。

伏見:第二部では「世界や誰かを救う時にさえ、セックスしたいという欲求が勝ってしまう瞬間の苦しみ」も描かれますからね。あのシーン、めちゃくちゃ感動したんだよ、気持ちがわかるから。すごく俗な話になるけれど、会議中にエロいことを考えてしまって困ることとか、結構多くのヘテロ男性が抱えている悩みではあると思うんです。実は繊細な問題を扱っている。

後藤:ヘテロの男性性と権力を安易に結びつけてしまうことにこそ、問題があるんじゃないかと思いますが、デンジはオラつきもあるけれど権力的ではないし、男の弱さを見せている点で共感も誘うんですよね。そのバランスが良い。

伏見:性愛を描く作家といえば、押見修造は『惡の華』『ぼくは麻理のなか』『おかえりアリス』といった作品で、2010年代以降セクシュアリティを真正面から描いてきました。藤本タツキも影響を受けていると思う。男性の有害性が語られた時期に、男性セクシュアリティを丁寧に考え続けた作家で、そのラインは『チェンソーマン』第2部にも受け継がれている。

後藤:その観点から言うと、たしかに押見修造はすごく重要な作家だね。ヘテロ男性の欲望の複雑さ・細やかさをすくい上げている。『チェンソーマン』第一部の「胸を揉んでがっかり」や、手コキとオナニーにおける射精の感覚の違いに言及する場面などは、語りにくい繊細さをフィクションで描けていて、そこが藤本タツキの信頼できるところです。

伏見:マスターベーション/手コキ/セックス——同一人物でも快感は別。こうした差異があることは、意外と世間的にも共有されていない部分かもしれません。男性が自分の性について語るのは炎上しがちですが、『チェンソーマン』はフィクションだからこそ細やかに描写できていて、そこは強みだと思います。デンジの心理を丁寧に掘り下げていくことは、実はジェンダー分断をほぐすことにもつながるんじゃないかな。

後藤:マーク・フィッシャーが言うには、サディズムは基本的に穴を埋めていく作業だから、その穴を全部埋め終えたら完了しちゃう行為なんだけれど、マゾヒズムはそのへんの無機質なオブジェとか森羅万象にエロティシズムを見つけていく作業だから、創造的な可能性に満ち溢れているんだそうです。昨今はXがとりわけサディズム(断罪)に偏重しがちで、むしろ男性の中にある複雑さのような「繊細な謎」をマゾヒスティックに受け止める文化が弱っているのかもしれない。本当は、誰の中にもサドとマゾが併存していて、転換もするものだと思うのですが。

伏見:論理で他者を傷つけやすい時代だからこそ、自分の中のマゾ的要素を見直すことも必要なのかもしれませんね。『チェンソーマン』という作品は、その契機としても重要な役割を果たしているのかなと思いました。

後藤:『チェンソーマン』は「良い男性学の漫画」でもあるということですね。押見修造ラインと接続して読むと、それがよりクリアに見えるんだということを最後に強調しときます。

関連記事

リアルサウンド厳選記事

インタビュー

もっとみる

Pick Up!

「インタビュー」の最新記事

もっとみる

blueprint book store

もっとみる