堺雅人 × 井川遥の切なすぎる“50代の恋愛” 『平場の月』原作小説から読み解く「友だちから」の意味

堺雅人と井川遥が共演する映画『平場の月』が、11月14日に公開される。その公式サイトを見ると、「これまでにない大人の恋愛小説」がついに実写映画化――と書かれている。「大人の恋愛小説」と聞くとシャレたラブストーリーを想像するかもしれない。だが、「これまでにない」というくらいだから、お決まりの展開ではないのだ。
朝倉かすみの原作『平場の月』を読み始めると、まず、最初の章で、えっ? と思う。主人公の青砥健将は、人づてで須藤葉子の死を知る。彼と彼女は、かかわりがあったらしい。青砥は供える花を買おうと、花屋を訪れる。そして、須藤が、住んでいるアパートの隣にある駐車場の一角にハーブを植えて菜園にしていたこと、その上にある二階の窓から顔を出した彼女が夜の月に似ていたことを思い出す。あの時、窓でなにを考えていたのかと彼が問うたら、須藤は「夢みたいなことをね。ちょっと」と答えたのだった。次の章からは、二人の関係が、あらためてふり返られる。
恋人に見守られて、あるいはその胸に抱かれて死んでいくのは、悲劇的なラブストーリーの定番だろう。だが、青砥は須藤の死に目に会えず、後になって他人から教えられて相手の死を知るのだ。そんな恋愛の結末を冒頭で明らかにし、いわばネタバレからスタートするのが、この小説の興味を引くところだ。書名になった月についても、夜の月に似ていた須藤を指すのだろうと、最初の章で察せられる。では、青砥はなぜ須藤の死に立ち会えなかったのか、須藤の考えていた「夢みたいなこと」とはなにか。本を手にとった人は、それらの疑問の答えを求めて読み進めることになる。
青砥と須藤は、五十歳になって再会した。二人は中学校の同級生で、三年生の時、青砥が「友だちからでいいので付き合ってください」と告白し、「いやです」と須藤にフラれたのだった。中年になった青砥は体の不調を感じ、念のため検査にいった病院の売店のレジで働く須藤を見つけた。それをきっかけに二人は呑みにいき、須藤が「どうってことない話をして、そのとき、その場しのぎでも『ちょうどよくしあわせ』になって、おたがいの屈託をこっそり逃すやつ」、そんな会をこれからもやろうと提案する。青砥は、「いいね」、「互助会的なね」と応じる。
ゆるゆるとしたこの滑り出しが、いかにも五十歳の大人らしい。久しぶりに会ったからといって急激に燃え上がったりしないのだ。「念のため」とか「互助会」とか、若い頃の思いきりのよさとは異なる、自分の限界も自覚した態度で相手と接していく。
ここで気にとめておくべきなのは、須藤葉子が、中学時代から同級生に「太い」と評されていたことだ。体型や顔立ちが太いわけではない。ものごとに動じないところが、そういわれるらしい。青砥も「須藤はなんか太いんだよな、とつぶやくと、しっくりする」と思っていた。大人になって再会してからも、彼女には「太い」ところがどこか残っている。だが、同時に互助会がほしいような心細さもないではない。この両面に注目すると、彼女の言動を受けとめやすくなるように思う。
青砥と須藤の距離は少しずつ近づき、互いの住まいに行き来して恋人と呼べる状態になる。結果的に「友だちからでいいので付き合ってください」を五十歳になって実現しているようなものだが、それは中学の頃に考えていた「友だちから」とは、まったく違っているはずだ。
青砥も須藤も再会した時に独り者だったが、どちらも過去に結婚していた時期があった。上手くいかなかった結婚や恋愛があり、自分を見失ったこともあった。また、親が死んだり老人ホームに入ったりして、一人暮らしになったのである。それらを経て、彼らの最近のスローペースがある。
やがて須藤が病気になり、青砥はいろいろ助けの手をさしのべるようになる。健康だった以前のような排泄はできなくなる病気だし、金銭的な問題、闘病生活をめぐる須藤と妹との考えのズレなども浮かびあがる。ありがちな病気ものストーリーならきれいごとですませるところまで、省かず書いているのだ。
書名に使われ、作中にたびたび出てくる「平場」という言葉には複数の意味があるが、本作では、普通の場、一般の人々の立場を指しているのだろう。美男美女のシャレた話ではなく、過去に失敗もした普通の男女のためらいがちな恋物語である。病気に関して「だれにどんな助けを求めるのかはわたしが決めたいんだ」という須藤は太いままだし、青砥は彼女に精一杯寄り添おうとする。
須藤との距離がだんだん近づいていくと青砥は、彼女と「深く根を張った関係」になったと思うようになる。だが、冒頭で示されている通り、彼は須藤の死に目に会えない。その経緯が、とても切ない。読み終わって、「根を張った」という比喩から、須藤が駐車場の一角に地面にハーブを植えていたことを連想した。あれは、彼女のつつましいが確かな生活ぶりを象徴するものだった。だが、須藤の死を知った青砥は、花屋へいって店員に供花を求める。彼は、どれを選ぶか決められなかった。それは、目の前にあるのが、もう根づくことが期待されない切り花ばかりだったからではないか。彼女と根を張ることを望んでいた青砥には遠いものと感じたられたからではないか。そのように想像すると、また切なくなる。
























