大藪春彦、江戸川乱歩、松本清張、石原慎太郎……杉江松恋が語る、『日本の犯罪小説』の定義とその魅力

杉江松恋『日本の犯罪小説』インタビュー

石原慎太郎のような無邪気な犯罪小説は、今は無理

――杉江さんにとって、これが初の長編評論ですね。作家論が並んでいますが、後半になると論じた作家同士の関連も語られ、書籍化では桐野夏生、馳星周、高村薫をあつかった終章が書き下ろされ、それが総論に近い役割を果たしている。

杉江:『日本の犯罪小説』は、最後に総論を書けるかどうかわからない状態で始めました。ただ、個人と社会の対立関係を書くのに適したジャンルだからみんな書くのだというのがいいたかったことだし、その定義は最初に書いたから、結論はそこで出ている。個人と社会の対立という作家にとって魅力的な題材を、どう書いたかに関心があるんです。1つの着想をいろんなパターンでしつこく何度もいっている本です。塑像みたいにここの肉づけがもうちょっといるかなという風に書いていきました。伝えたい定義の部分を、汎用性が高い、普遍性のあるものにして、犯罪小説の概念をきちんと提示したかった。肉づけをして立体感を出すことで、結論が受け入れてもらいやすいものにしたかったんです。

――本には綾辻行人の名も出てきますけど、犯罪小説といった時に謎解きを主眼としゲーム性が強い本格ミステリはどういう位置づけなんですか。

杉江:綾辻に触れたのは、犯罪者が物語の中心にいて、自分の意識でも統合できないことをしてしまう作品が念頭にあったからです。作者には自分が知らない自分が目覚める恐怖がある。僕からすると、それは犯罪小説の範疇に入るものです。本格ミステリの謎と犯罪小説の組みあわせは、実はいいのではないか。例えば、東野圭吾『容疑者Xの献身』が本格ミステリかどうかの論争になった際、笠井潔が格差のような要素を不可視領域に追いやることで成立していると指摘して、それは正しかったと思います。ただ、不可視領域へ追いやったからといって批判するのは一面的な気がします。そういう構造で書かれた小説とはなにかと考えると、個人と社会の関係を描いた犯罪小説ともいえるのではないか。

 だから、謎解きを基本とする本格ミステリにも、トリックのゲーム性はどうなのかという点はあるけれど、動機の問題があるので犯罪小説は成立するでしょう。倫理観の欠如は社会で醸成されるものですし。

――ポリティカルコレクトネスへの配慮の高まりなど、近年は犯罪について語るのが難しくなっているように思いますが。

杉江:石原慎太郎のような無邪気な犯罪小説は、今は無理ですよね。意味づけなしでは、暴力を書けない。スカッとしたいから殴るというような話は無理というか、求められていない。暴力など犯罪を書くにあたって縛りがあるので、それを掘り下げた人しか書かなくなるなら、逆によい機会という気もします。かつてはタブーなどそれほどなくて、人間の描き方に野放図なものが多かった。今はいろいろ考えなくてはいけない。社会の影響を見ないと個人の描写が成立しないと考えている方が、犯罪小説を書きやすいはずです。

 ただ、一般的に正義を求める感じが、強まっています。正しさを求める流れと小説は、噛みあわないのではないか。最後に正しいものが勝たないと市場性がないというのは、ちょっと困ったことです。社会と個人の対立を描くうえでは、登場人物が間違ったことを堂々と主張する物語があってもいい。でも、今はなぜそういう主人公なのかを説明しないと商業出版として難しいんですよ。

書評家や評論家が考えるスピード、ロジックで本の話をする場があった方がいい

――杉江さんは近年、落語、講談、浪曲など、伝統的な演芸の関係の仕事も多いですが、ミステリを中心とした書評の仕事と頭のなかでどういう配分になっているんですか。

杉江:演芸の方は仕事になっているか微妙ですけど、趣味は中心でなくても、基本なんです。趣味としている演芸は、小説を読むための理解に結びついているから、本業の書評にフィードバックされて無駄にならない。それが、前提としてあります。

 例えば、喋るだけの講談なら15分ですむのに、浪曲は節をつけ、途中で朗々と歌ったりするから30分かかったりする。時間が長いわりに情報量が少ない。人の心を揺さぶるためにうなっているから。自分の書評は、この小説はこういうプロットを利用していて、それをやるために必要なキャラクターが要請されるという風に、必ず構造に目がいく。この記述は後に伏線として回収するためだとか、ミステリ読みなら考えるわけです。すると小説の部品が機能主義的に見えてくる。でも、浪曲は無駄なことをしているのに、聴いた人たちがポロポロ泣いたりする。ロジックとプロットだけでは解決できないことが、物語を語る技術にあるということにあらためて気づかされます。それで、小説における浪曲の節にあたるものはなんだろうと探すようになったんです。

――私は浪曲は詳しくないですけど、『物語考 異様な者とのキス』でミュージカル化された物語を論じたばかりなので、語り方への関心には共感するところがあります。

杉江:しかもミュージカルだと起承転結までいくけど、浪曲は話の途中で終わるんですよ。「石松の仇を討つために次郎長は」といって乗りこむところで終わってしまう。でも、聴いている時は納得する。この後、きっと復讐をとげると頭に浮かぶからいいのかもしれない。プロット、構成は、小説の必須要素ではない。ほかにもいろんな要素があると教えられます。その意味で自分を広げてくれることを、趣味と称してやっているんです。

――ネットでは、ライターとしていかに生きるべきかということをしばしば発言されていて、最近はYouTubeでの活動も活発ですよね。(杉江松恋チャンネル「ほんとなぞ」)

杉江:海外ミステリ、国内ミステリ、SF、文庫、短編、犯罪小説、ノンフィクション、古本屋巡りなど、毎日動画をアップする感じです。でも、けんごさんのTikTokのようなちゃんと編集したものではなく、ほぼ撮って出し。本に関する動画が、タイムパフォーマンス重視だけになるのは嫌だと思って、書評家や評論家が考えるスピード、ロジックで本の話をする場があった方がいいと思って始めたら、どんどん増えていきました。

 今の書評家って1980年代のバブル期に成立したんです。それは媒体が維持されることを前提としたビジネスモデルだったんですが、もう成長はしないし落ちていく。今いるところで食おうとしても食えないし、業界がシュリンクするから新規開拓しなくてはいけないという認識で動いています。浪曲もその1つ。版元に浪曲の企画を持ち込んだ時は類書がないから売れないといわれましたけど、ここで成功すると1つの需要ができて仕事が増えるかもしれないという腹づもりがありました。後追いをしても仕方ない。

 『日本の犯罪小説』も同じで、ミステリ評論のなかでは傍流というか、犯罪小説だけを切りとって論じることはほぼなかった。でも、そういう観点の評論が成立したら、それで1つの需要ができるとの思いがあります。郷原宏さんの松本清張に関する著作を読んでいても、清張を社会派という手垢のついた概念だけでは語っていない。あの巨人をいろんな側面からあつかって、評論において清張というジャンルを作ったように思います。それと同じで、今まで議論が掘り尽くされているようでも、犯罪小説の定義から変えて作品を見ていくとまったく違うことができるよと、提案しているつもりなんです。

――いずれ平成以降の犯罪小説についても論じますよね。

杉江:平成以降、一般用語が推理小説からミステリになり、ブームがあってミステリの概念がガラッと変わりました。ジャンルが膨らんで、どこまでがミステリかという議論がたびたびあった。今では、ミステリ的な構造を持っていても、ミステリと呼ばれない作品も増えました。概念としてみんなが共有する感じになり、拡散して溶けこんだから、ミステリをキャッチコピーに使ってもあまり意味がない感じになりました。そういう観点から、犯罪小説も平成以降はどうだったのか、見直したい。

 例えば、スクールカーストって小さい集団のいじめというか犯罪をあつかっていて、集団のなかの人にとっては、教室が世界のすべてでそれが社会です。青春小説を犯罪小説的な観点から見ることもできるでしょう。『日本の犯罪小説』で打ち出した視点は、かなり汎用性がきくと考えていますし、とり組まなければならない題材がたくさんあります。平成以降は30年以上ありますから、気軽に始めると大変なことになってしまう。でも、いつかは、というか、どこかでやります。はい。

■書誌情報
『日本の犯罪小説』
著者:杉江松恋
価格:2,420円
出版社:光文社
発売日:2024年10月23日

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