【連載】福嶋亮大「メディアが人間である」 第3回:アウラは二度消える
3、空間の消失
ベンヤミンの論文を額面通りに受け取るならば、21世紀にimmersionが主要なイデオロギーとなったのは、ほとんど歴史の必然とさえ思える。この新たなイデオロギーは、一回性に由来するアウラに代わって、反復的・持続的な没入を強く推奨する。現代のIT企業とそのユーザーを駆り立てる「近さ」へのオブセッションは、「遠さ」の消失とコインの裏表の関係にあると言えるだろう(※4)。
もともと「近さ」や「没入」を巧妙に設計したのは、ディズニーランドのようなテーマパークである。世界を記号化することによって没入を効率的に促すというディズニー的な戦略は、1990年代以降、インターネットのVRに受け継がれた。没入を推奨するイデオロギーは、非物質的=記号的なメディアの与える自由さを過大評価してきた。のみならず、没入はカリフォルニアン・イデオロギー(コンピューター・カウンターカルチャーとシリコンバレーのネオリベラリズム的価値観のミックス)とも非常に親和性が高かった(※5)。
ただ、現在のテクノロジーの水準は、まだこの過度に理想化された「没入」を実現できていない。メタバースのイデオローグたちは、人類は今後ほとんどの時間を仮想空間で過ごすようになり、メタバースは超巨大経済圏に成長するとうそぶいてきたが、これはプロパガンダとしてもずいぶんお粗末である(※6)。さらに問題なのは、この21世紀のイデオロギーが没入を理想化するあまり、そこで何が失われるのかをほとんど考慮していないことである。
繰り返せば、没入はアウラを備えた「遠さ」を犠牲にして成り立っている。そして、遠さの消失は事実上「空間」の消失と等しい。先ほど引用したベンヤミンの文章には、一回的な遠さのなかで「山々のアウラを、この木の枝を呼吸する」という表現が出てくる。しかし、メタバースには「呼吸」を可能にする空間が存在しない。
ここでもやはり、20世紀の複製技術と21世紀の複製技術のあいだの差異を考えるべきだろう。例えば、マクルーハンはレコード音楽やそれ以降のステレオ音に、触覚的な要素を見出していた。
「原音」を追求するハイファイ志向は、触覚的経験の回復を代表するテレビ映像と融合する。なぜなら、演奏している楽器を「まさにあなたの部屋の中に」持ち込もうとする感覚は、弦楽器の名技性の中に聴覚的なものと触覚的なものの結合を求めるものだからである。これは彫刻的体験にきわめて近い。演奏している音楽家と同じ部屋にいるということは、彼らが楽器に触れたり操ったりするのを、単に音響としてではなく、触覚的動力学的なものとして経験するということである。(※7)
レコードという装置は、音像に造形性や物質性を――マクルーハンの言う「彫刻的体験」を――与える。この触覚的なダイナミズムは、まさに空間があるからこそ可能なのだ。逆に、インターネットで促される没入は、このような「ま」(空間)を消失させる。メタバースは確かに、仮想世界にまるで手で触れているかのような錯覚を与えるが、それはどれだけ技術的に進化しても「彫刻的」な体験にはなり得ないだろう。
空間の消失――われわれはその具体例を、電車内の情景から探り出すこともできるだろう。今の東京で電車に乗ると、下手すると、乗客の半分近くがワイヤレスのイヤホンを装着しているのではないか。ほとんど補聴器と見紛うようなイヤホンは、耳を通じて脳にダイレクトに信号を伝える。音は空気(空間)の振動のなかで造形されるのではなく、神経に直接作用して、個人の脳内で鮮明に構築されるのだ(ついでに言えば、それは補聴器のメカニズムとも別ではない――補聴器もまた脳に送られる信号を増幅し、静寂に慣れてしまった脳をリハビリするための装置である)。
むろん、私はここで道徳的なお説教をしたいわけではない。つまり、イヤホンが外界を遮断したエゴイズムの象徴だとか、難聴患者を増やして健康に良くないとか、そういうつまらない批判をしたいわけではない。私が言いたいのは、没入を加速させるテクノロジーには、そのまま21世紀のイデオロギーが凝縮されており、人間の「心」もそれに規定されているということだ。われわれはなぜ、没入に没入するように仕向けられているのか。なぜメディアの「近さ」や鮮明さを選ばされているのか。逆に、不鮮明な「遠さ」に対しては、理由のない不安や忌避感を抱いてはいないだろうか……。そう問うとき、空間性は改めて政治的・文化的な争点として浮上してくる。このテーマは後でまた触れることにしよう。
※4 なお、近さと遠さは、ベンヤミン(1892年生まれ)と同世代の哲学者ハイデッガー(1889年生まれ)にとっても根本問題であった。ただし、ハイデッガーはベンヤミンとは逆に、近代のテクノロジーのもたらす「駆り立て」によって、人間が「近さ」を喪失したと考えた。ハイデッガーによれば、「近さ」は計算不可能であり、したがって学問的対象にはならない。しかし、人間の「実存の条件」を構成するのは、まさにこの学問的には計測できない「近さ」だとされる。E・ケッテリング『近さ――ハイデッガーの思惟』(川原栄峰監訳、理想社、1989年)237、244頁。
※6 メタバースをめぐる言説は、身体からの脱却を説くオカルト的な新興宗教を思わせる。私はすでにその問題を、メタバースの元ネタとなったニール・スティーブンスンのSF『スノウ・クラッシュ』に即して論じたことがある(『書物というウイルス』参照)。VRの根幹を「没入」に認める思想の典型として、マイケル・ハイム『バーチャル・リアリズム』(小沢元彦訳、三交社、2004年)が挙げられる。
※7 マクルーハン『メディア論』290頁。